判断力が鈍く感じるとき。
ありませんか。 ^-^;
もう、頭のなかでは「これきゃない!」と結論づけができているが、
それにもかかわらず「本当にこれでいいか」と言って変化を恐れる。
人は変化するには勇気が必要です。
徹底した勇気づけがされてみて「これでいい!」と思えることです。
それが必要なのです。
ただそんな勇気づけがなされたはずなのに、
それにもかかわらず「やっぱり行動に移すには盲点があって落とし穴があるかも・・・」と不安がもたげる。
そのようなときは圧倒的なフィジカルな勢いが必要になることがあるのです。
私の個人的な勝手な考えですが、
お聞きいただければ幸いです。
・-------------------------・
アレクサンダーローエンのバイオエナジェティックス。
そちらのジャンルの本から、
呼吸機能が改善しなければ、
肉体ばかりではなく精神的な抑圧もよくなることはない。
そのように書かれているページがあります。
個人的な感想ですが「私もそう思います!」
精神的な安定が、かなえられるようになりたいと思うとき。
特に胸郭のブレーキになってしまっている部分を緩めて、
体全身の呼吸をかなえられるような基礎作りをしていく。
徹底的に胸郭を緩めて各肋骨や胸骨・胸椎などの正常な位置と可動域を正常化させること。
ただ優良な呼吸とは横隔膜の動きのみではない。
腰部裏側の膨らみを作り、骨盤底筋を動かす。
胴体部分の体幹を前後に反らすこととなって。
腕や脚も、呼気と吸気では動きがでるのです。
そして呼吸からの視点が超えてしまうのだが、
ゆだねることも抑圧を解放するために必要だ。
それにはどのような具体的方法があるか?
たとえば、それは「ワッツ」という人肌の温度に暖められた温水内でおこなう他動的エクササイズ。
私は体験したことがありませんが、
すばらしい成果があると聞きました。
身も心もゆだねる作用がディープに生まれるため、
目立った改善例も多いようです。
それは実際に精神的な強いトラウマのようなストレスを受けて、
それがPTSDのようになり生きづらくなってしまった人達が、
ワッツを受けることで大きな改善成果を受け取ることができる。
あなたは、心底、ディープなリラックスを体感したとき。
ありますか?
たとえば右脳がドーンと活性化し、
左脳とうまく噛み合って働き出す。
そのような左右の脳を高速にまんべんなく情報をやり取りしだすような反応も起こるようです。
私は気ぜわしくて仕事をしていて、
リラックスしようと座禅をしても、
悩みや気がかりがあれば難しいし。
そのような日常に染まりながらの
アイデアならば、十分な力がない。
そのような弱さを感じています。
一度、たとえばしっかり胸郭をリリースを筆頭として、
呼吸システム全体の機能向上ために様々な対処をする。
それから自分の身体を深く委ね任せられるような体験。
ワッツもいいでしょうし
それだけでなく他にも様々あると思いますので探し、
そして実践してみるようにする。
そんなプロセスを幾度か繰り返して成果がでるまで取り組む。
そうやって抑圧されたこころと体が開放されたときに、
素のままの自分をありのままに見つめられるはずです。
あるがままのものを、
あるがままにみられるならば。
それは悟りにも近い賢明な知恵を生みだします。
そのような経験を得た後に、
堂々巡りして決断しづらいことも
さっぱりと蹴りをつけられるものでしょう。
そのような気がしています。 ^-^
2015年09月22日
2015年02月18日
『照顧脚下(しょうこきゃっか)』
『照顧脚下(しょうこきゃっか)』
禅の極意を表す禅の言葉といわれます。
・---意味 はじまり---・
自分の足元をよくよく見よという意。
もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、
まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。
転じて、他に向かって理屈を言う前に、
まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。
また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
▽「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。
「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る意。
・---意味 おわり ---・
一般的には、上述したような言葉なのですが、
私が好きで聞いているコーチングの先生の音声には次のように紹介されていて興味が持てました。
「『照顧脚下』という禅語があるんです。
自分の立っているところがわからなければ、スタートラインはわからない。
人それぞれ、人生におけるスタートラインは、それぞれなのだ。
自分の足もとをよく見ることでスタートする地点が、
ゴールに遠いか近いかがわかります。
スタートラインは、誰一人として同じ位置ではないのです。
だが自分の足元を見ることができれば、
いつでもそこからスタートできるのです!」
という趣旨です。
お客様が、施術を受ける初回のとき。
その時点がスタートラインです。
相当に体の知識を持った人でも
体の把握は至難の業です。
他人の粗はよく見えるが、
自分の粗は少しも見えず。
そのようなところからくるのでしょう。
だから同業者同士が施術をしたり受けたりしてみても、
互いに大きな発見がある場合も大いにあります。
ゴールの地点を決めるのは、お客様です。
ただその位置にたどりつくにしても、
スタート位置が見つけられると同時に、
ゴールの地点もどこの場所にあるのか。
そこが明確に見定められていなければ。
ゴールが見定められて、
その上でスタート位置がわかれば、
初めて向かうべき方向性が見える。
そしてゴールまでの距離がわかる。
コーチングは、コーチとの会話をしているように見えるものですが、
実際はコーチを受けるものが胸中で自問自答をするサポートをする。
クライアント自身に目を向けさせ気づきを増やさせます。
コーチがお仕着せてクライアントの方向ぎめをするのではないのだ。
照顧脚下という、足元を見る禅の極意を活かしていこうという考え。
コーチングとは、四六時中、後ろからコーチがついて回るのではなくて、
それは自動車レースをしているときのようなものだといいます。
レースカーはほとんどの時間はレース場のロードの上にいて走り続ける。
ピット・インするのは一瞬だけ。
ほんのわずかな時間でしかない。
一ヶ月のうちの90%以上の時間は、
一人で走らなければならないのです。
だからコーチができることは、
勇気づけをする言葉をかけて、
そして真剣にそのクライアントが夢をかなえられるのだと信じる信者でいつづけること。
職業としておこなっているものですから、
契約期間満了後の100%の時間を一人で走らなければならないときまでに、
どれだけ自分で考え、自問自答を繰り返して、今まで以上に合理的な判断ができるよう
リソースを増やしたり、気づきを得たりすることができるかという、視野を広げるのか。
そのようなことが大事なのだといいます。
そうするにも、どれだけコーチが真剣かという思いが伝わるかどうか。
施術をする私も、まったく同じ思いです。
施術者として接する時間は限られていて、
90%以上の時間は、私がお客様に関われる時間ではありません。
お客様ご自身が、足元を観て歩む時間がほとんどなのが事実です。
施術をお受けいただくというピット・インする状態のときに、
どれだけ真剣に、少しでも多くの視野を増していただけるように、
テクニカルなアドバイスができるか。
限りある時間、密度を高めて接するか。
私にはそれ以上に、尊いことがあります。
それはお客様が健康が増して
「モアベターな状態」へステップアップしていっていただけると信じ続ける。
お客様にそうなっていただけるよう期待してそれを喜びます。
ときにはお客様の状態が、後退していることもあるでしょう。
私の関われる時間はほんの僅かなものですからしかたありません。
ときにはその状態を見て、心底、、、落胆していることもあって、
顔に出そうになるときもあるのも事実です。
人間ですから、感情もあるのです。
お金のためだけではなくて必死になっておこなう施術です。
その気持も手伝ってのことなのですね。
ですが、「照顧脚下だから、今がスタートラインだ!!」と考え直して、
原因を共に探って再度、同じ事にならないようにしていきます。
また、
私のところにばかり施術を受けて頂いて利益をこちらにというのではなく、
他にさらによい医院があればそちらに乗り換えていただいたようなときも、
自分がケアしたかのように健康になられたことを喜ぶ自信があります。
体を磨きをかけていってさらに暮らしやすい生活をして欲しいと真剣に祈っています。
純粋に体の不都合が減っていったり、体の状態がスキルアップしていったりといった、
よく生きるための下地作りのお手伝いをすることにありがたさ、感謝を感じているのです。
それが、私の施術者としてやっている「信念」なのです。
それが実際には、願いがそのままかなうかどうかという
事実がそうはならないときもあります。
ですが、そうなってほしいという「信念」から動きます。
だから毎回、力の許す限り仕上げていく勝負をしています。
今の今まで、そのようにしてきた所存です。
ただ施術上でも思慮深さに欠けてしまうところもあります。
先だってはお客様に多大なるご迷惑をお掛けしたこともありました。
そのことをこの場をお借りして、お謝りいたしたいと思います。
ちなみに、この禅語の起こりは以下の様になります。
『鎌倉時代に三光国師(1271−1361)という禅僧がおられ、
弟子の1人が「禅の極意とは何ですか」と問うと、
ただひとこと「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と答えられた』そうです。
自分の足元を見つめよう。
そこの場を受け入れよう。
そこから第一歩を歩もう。
そこに禅の極意がある。
シンプルに、噛みしめたい姿勢を表す言葉ですね。
最後に。
予約順番待ちの受付再開のときが近づいてきています。
次のステップの私のゴールの方向を見極めるところに。
私も自問自答を徹底的に繰り返しながら、
自分の足元を見て、
それからゴールを目指してまいります。
現在の考えでは、
詳細はまだ未定ですが、
2月末に先着30名限定とさせていただくようにと考えています。
あまり多くの人数を受け付けないようにするのは、
先だっての予約順番待ちで長期間にわたりお待たせするのは
やはり私には耐え難いほどつらいことだなと感じたからです。
予約順番待ちの再開をする募集前に、
後日内容を公開させていただきます。
今まで以上に予約順番待ちにお並びいただくお客様に、
忌避事項についての規定を厳密化させていただいたり、
私自身の仕事の方向性からお客様にご不便やご迷惑を
おかけするようなこともあるかと思います。
ただし、私自身は、常に「信念」を持って、
その気持を持っているものがいるんですよ、
ということをわかってほしいというものが。
そこにいるとわかっているから、
たまに、施術を受けてみようかと思っていただけるようなでありましたら、
これ以上の喜びはないですよね。
禅の極意を表す禅の言葉といわれます。
・---意味 はじまり---・
自分の足元をよくよく見よという意。
もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、
まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。
転じて、他に向かって理屈を言う前に、
まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。
また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
▽「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。
「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る意。
・---意味 おわり ---・
一般的には、上述したような言葉なのですが、
私が好きで聞いているコーチングの先生の音声には次のように紹介されていて興味が持てました。
「『照顧脚下』という禅語があるんです。
自分の立っているところがわからなければ、スタートラインはわからない。
人それぞれ、人生におけるスタートラインは、それぞれなのだ。
自分の足もとをよく見ることでスタートする地点が、
ゴールに遠いか近いかがわかります。
スタートラインは、誰一人として同じ位置ではないのです。
だが自分の足元を見ることができれば、
いつでもそこからスタートできるのです!」
という趣旨です。
お客様が、施術を受ける初回のとき。
その時点がスタートラインです。
相当に体の知識を持った人でも
体の把握は至難の業です。
他人の粗はよく見えるが、
自分の粗は少しも見えず。
そのようなところからくるのでしょう。
だから同業者同士が施術をしたり受けたりしてみても、
互いに大きな発見がある場合も大いにあります。
ゴールの地点を決めるのは、お客様です。
ただその位置にたどりつくにしても、
スタート位置が見つけられると同時に、
ゴールの地点もどこの場所にあるのか。
そこが明確に見定められていなければ。
ゴールが見定められて、
その上でスタート位置がわかれば、
初めて向かうべき方向性が見える。
そしてゴールまでの距離がわかる。
コーチングは、コーチとの会話をしているように見えるものですが、
実際はコーチを受けるものが胸中で自問自答をするサポートをする。
クライアント自身に目を向けさせ気づきを増やさせます。
コーチがお仕着せてクライアントの方向ぎめをするのではないのだ。
照顧脚下という、足元を見る禅の極意を活かしていこうという考え。
コーチングとは、四六時中、後ろからコーチがついて回るのではなくて、
それは自動車レースをしているときのようなものだといいます。
レースカーはほとんどの時間はレース場のロードの上にいて走り続ける。
ピット・インするのは一瞬だけ。
ほんのわずかな時間でしかない。
一ヶ月のうちの90%以上の時間は、
一人で走らなければならないのです。
だからコーチができることは、
勇気づけをする言葉をかけて、
そして真剣にそのクライアントが夢をかなえられるのだと信じる信者でいつづけること。
職業としておこなっているものですから、
契約期間満了後の100%の時間を一人で走らなければならないときまでに、
どれだけ自分で考え、自問自答を繰り返して、今まで以上に合理的な判断ができるよう
リソースを増やしたり、気づきを得たりすることができるかという、視野を広げるのか。
そのようなことが大事なのだといいます。
そうするにも、どれだけコーチが真剣かという思いが伝わるかどうか。
施術をする私も、まったく同じ思いです。
施術者として接する時間は限られていて、
90%以上の時間は、私がお客様に関われる時間ではありません。
お客様ご自身が、足元を観て歩む時間がほとんどなのが事実です。
施術をお受けいただくというピット・インする状態のときに、
どれだけ真剣に、少しでも多くの視野を増していただけるように、
テクニカルなアドバイスができるか。
限りある時間、密度を高めて接するか。
私にはそれ以上に、尊いことがあります。
それはお客様が健康が増して
「モアベターな状態」へステップアップしていっていただけると信じ続ける。
お客様にそうなっていただけるよう期待してそれを喜びます。
ときにはお客様の状態が、後退していることもあるでしょう。
私の関われる時間はほんの僅かなものですからしかたありません。
ときにはその状態を見て、心底、、、落胆していることもあって、
顔に出そうになるときもあるのも事実です。
人間ですから、感情もあるのです。
お金のためだけではなくて必死になっておこなう施術です。
その気持も手伝ってのことなのですね。
ですが、「照顧脚下だから、今がスタートラインだ!!」と考え直して、
原因を共に探って再度、同じ事にならないようにしていきます。
また、
私のところにばかり施術を受けて頂いて利益をこちらにというのではなく、
他にさらによい医院があればそちらに乗り換えていただいたようなときも、
自分がケアしたかのように健康になられたことを喜ぶ自信があります。
体を磨きをかけていってさらに暮らしやすい生活をして欲しいと真剣に祈っています。
純粋に体の不都合が減っていったり、体の状態がスキルアップしていったりといった、
よく生きるための下地作りのお手伝いをすることにありがたさ、感謝を感じているのです。
それが、私の施術者としてやっている「信念」なのです。
それが実際には、願いがそのままかなうかどうかという
事実がそうはならないときもあります。
ですが、そうなってほしいという「信念」から動きます。
だから毎回、力の許す限り仕上げていく勝負をしています。
今の今まで、そのようにしてきた所存です。
ただ施術上でも思慮深さに欠けてしまうところもあります。
先だってはお客様に多大なるご迷惑をお掛けしたこともありました。
そのことをこの場をお借りして、お謝りいたしたいと思います。
ちなみに、この禅語の起こりは以下の様になります。
『鎌倉時代に三光国師(1271−1361)という禅僧がおられ、
弟子の1人が「禅の極意とは何ですか」と問うと、
ただひとこと「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と答えられた』そうです。
自分の足元を見つめよう。
そこの場を受け入れよう。
そこから第一歩を歩もう。
そこに禅の極意がある。
シンプルに、噛みしめたい姿勢を表す言葉ですね。
最後に。
予約順番待ちの受付再開のときが近づいてきています。
次のステップの私のゴールの方向を見極めるところに。
私も自問自答を徹底的に繰り返しながら、
自分の足元を見て、
それからゴールを目指してまいります。
現在の考えでは、
詳細はまだ未定ですが、
2月末に先着30名限定とさせていただくようにと考えています。
あまり多くの人数を受け付けないようにするのは、
先だっての予約順番待ちで長期間にわたりお待たせするのは
やはり私には耐え難いほどつらいことだなと感じたからです。
予約順番待ちの再開をする募集前に、
後日内容を公開させていただきます。
今まで以上に予約順番待ちにお並びいただくお客様に、
忌避事項についての規定を厳密化させていただいたり、
私自身の仕事の方向性からお客様にご不便やご迷惑を
おかけするようなこともあるかと思います。
ただし、私自身は、常に「信念」を持って、
その気持を持っているものがいるんですよ、
ということをわかってほしいというものが。
そこにいるとわかっているから、
たまに、施術を受けてみようかと思っていただけるようなでありましたら、
これ以上の喜びはないですよね。
2014年12月20日
手のひらに石を握りしめて
催眠療法にも長けていた心理的アプローチをする者がいた。
彼の治療をするオフィスに、クライアントの男性が訪ねてきた。
身体の痛みに苦しがる。
この苦しさから逃れたい。
どうすればいいのか・・・。
心理的アプローチをする者に、
帰り際、次のような支持を受けた。
「手のひらに収まるほどの石がある。これを次のセッションを受けるときまで、肌身はなさずに持っていなさい」
男性は、なぜ石ころを持っていなければならないのかと理由を尋ねたが、
教えてくれるようなそぶりもない。
「まぁ、いいから持っておりなさい」
仕方がなく、いわれたように小石を持ち続けた。
次のセッションを受けるときに、
男はいいました。
「先生わかりました。
私の病は、まるでこの手に握り続け石のように、
ずっと自分が肌身離さず持ち続けていた物だったのですね」
先生はそのことを伝えたかったに違いない。
そう思って、もうこの石の役割は終えたものと考えた。
そして石を机の上に置いて手放そうとする。
そのとき先生は「まだ石を手放さないでください。次のセッションまで持っていてください」という。
次のセッションのとき。
男、「先生、たまたま私が書類を書いていたとき、強い風が吹いてきたんです。
そのとき、私は思わず石を紙の上に乗せて飛ばないようにしたのです。
じゃまと思っていた石でも、役に立つものですね。」
結局は、「痛み」も「病い」も、この手に握りしめられた石のよう。
自分の意志で手放すこともできる。
手放そうとしていない自分がいる。
今までの自分は、それに気づいていないだけなのかもしれない。
自分で握りしめているものと気づいていればそれを机の上に置くこともできるのだ。
自分は痛みにもてあそばれるばかりではなく、
痛みから自由になるマスターでもあるのです。
握られた石が紙が飛ぶのを防いだように、
「痛み」も「病い」も、役に立てられる。
慢性痛や筋肉痛、それにどのような病や一部の大病さえ、
自分で握りしめたままの石のようなものだと感じている。
深く噛みしめたい示唆に富んだアドバイスのようだ。
体の痛みを感じながら暮らしている人もおられます。
その方にこのアドバイスを送るには勇気が必要です。
時間をかけて自分で気づくことが大切なのでしょう。
先生に教条的に「こういうものだ」と教えられても、
素直にその言葉を受け入れられづらいかもしれない。
2014年04月09日
身をすくめて・・・じっと施術本を眺め続けるのは、、、よくない。^-^;
何を得るのかということは、何を失うのかという選択の上になりたっております。
どの仕事に取り組むか決めて集中したほうが、得られるものが多いものです。
不安だから
A B C などたくさん、
選択肢があります。
どれも魅力的なものですが、
すべてを一緒にはできない。
でも、どれも今の自分が欲しいものに違いない。
そうなると、どれも捨てられない。
Aを選択して決めるということは、
BとCを失う苦痛と不安を味わいます。
思いついた以上はABCどれもが自分。
自分のものですから、大事にしたいし、
どれも魅力的すぎて目移りがしている。
夢想すればBもCもキラキラ光り「絶対、欲しい!!」
頭のなかが行動を選択できず燻り、混乱。
そうやって仕事をためていく性格ならば、
次にも次にもたまりに貯めてしまいます。
すると余計に混乱をきたしていきます。
B・Cを棄てさることがなければ、、、
Aだけに絞るということができません。
取り組んでみれば、
ことのほか集中して数時間で対処でき、
仕事がはかどってしまったというとき。
ならば、
AをおこないBを次に、そしてCをクリアして完成!
一時期でもB・Cを消し去る不安や苦痛を得て決断。
決断するということは、
何かを得るという行為ではありません。
決断するということは、
何かを捨てる行為です。
捨てることで完璧には、
なれなくなるでしょう。
損失には違いありませんが、
なにを失えば最大な損失か、
それを考えていくしかない。
そして手元に残されたものとの縁を感じ、
まずはそちらに全脳を傾けるようにする。
切れ味よく一刀両断。
即断即決せねば流れが早い急流は渡れない。
失敗する結果を恐れず、
リスクを取るしかない。
「捨てる決断の苦痛」の意を悟ったときに、
何に集中して生きていくのかの胎動を感じ、
霧が晴れて目的地の見通しがついてきます。
私は、自室で、神社仏閣等で、
数分間〜数時間、ゆっくりと、
イメージ冥想をしていきます。
たとえば体の各部分を感じ捨てる。
目を閉じて瞼の裏側を捨てるとし、
両手、両足、胴体、、、
それらをそれぞれを丁寧に感じ、
体の各部を捨てて消し去ります。
緊張もコリも張りも、捨てます。
そして空気に溶け込ませて無に。
す〜っと身が落ち着くのですが、
同時に心も穏やかにほどけます。
全身そうして丹念に意識を配る。
そして今している仕事を捨てて、
友達も捨てて、ペットの猫も捨て、
好きな場も捨てて、、、。
自分の性格もひとつずつ捨てます。
あらゆる不安や恐怖も妄想ですし、
そんなものにぼったくられません。
火を着けてボッと燃やしてしまう。
徐々に巨大な概念のようなものも。
そしてしばらくすると、
すっからかんになった爽快感。
なんらぶつかり合う葛藤の芽も失せて、
混乱させることもできない、
なにもないような容器がポッカリとイメージに思い浮かぶまでたどり着きます。
改めてこの容器に捨てることができないものだけを決断して入れていくのです。
ひとまずはモンドセレクション以上に厳選。
大事なものがわかれば、行動の目鼻は付く。 ^-^)
十把一絡げでパッケージされた分析不足の思いは混乱そのものです。
自分が何を持っているか、
手持ちの物が何であるか、
無意識層にヒタ隠れているものを、
こそぎ落として引っ張り出します。
顕在意識に浮かび上がらせていく。
そうすると仏教で言うような四苦八苦も理知で分解しやすくし、
それも決断で、「これは妄想です」「これは妄想じゃないです(電話料金の支払い等)」
のようにわけることができるようになりました。
すると多くの「これは妄想です」という、
メタ化して自分勝手な解釈で自分を苦しめ、
自分を錯覚で過大過小していたりもしているので、
そこも修正をしていきます。
私がこのイメージ冥想をし始めたのは何故か?
強烈きわまりなかった背中の張りを緩和させるためです。
背中の起立筋が仕事の重圧というのもしんどいですし、
それが心身ともに体の過労で疲れすぎさせていたり、
消費税が8%になったのが10%になるといわれて、
不安や恐怖で出るも戻るも、
決めかねる混乱状態のとき。
「身がすくむ思い」がしますが、そう体も反応していく。
そしてこの身のすくむ型こそが、自律神経系を殲滅させ、
運動も中心軸から末端へと力の流れが失われる要因です。
ですが「身がすくむ」という状態で耐えていること自体、
緊急避難をした状態で避難場所にいる快適状態なのです。
「身をすくめてれば、いいんだよ」という、
遣り手ババの甘言で、避難場所に居着いています。
それでは本当に起きてほしくないことが起きるまで、
な〜んにも備えをすることもしていないわけですし。
突然、降って湧いたような災難も、
特に体関係のものについていえば、
気づく前に前兆があったはずです。
起立筋を緊張させて身をすくめるのは、
外界からの攻撃からのよろいを着続けているということ。
だから自分の内側で巻き起こる葛藤を、
『決断するということは、何かを捨てる行為です』
というように動きやすいよう身支度を整えて軽くするため削ぐ。
肝の座った人物なら、腹をくくり行動します。
背中の起立筋が硬化し緊張、短縮する状態も、
昨日の話の続きではありませんが、
自己免疫力を削ぐためものですし。
余談ですが、
たしか合気道の植芝盛平翁の話でしたか塩田剛三師範の話でしたか、、、
多数どりという多人数が一気に飛びかかってくるという場合にも、
誰かが先に自分に到達するからそれを時系列的に捌けばいいんだ、
といっていました。
まさに1/100秒を感じ反応できれば、
そういった世界になるのでしょうか。
人としてABCのタスクを観れば、
各々が個性があり、出足の早さ違い、得意技が感じられます。
人が相手ですから人に和合してみれば、
様子が手に取るように見えてくるもの。
本能的な直感と日頃の修練が実を結ぶことで覚醒したのでしょうね。
誰が来るかの妄想し瞬間、すでにこちらの出足が遅れ致命的。
他のものが急所めがけて、襲い掛かられて終わります。
もともとが小さな体です。
襲われるストレスや恐怖を捌くときに、
精神を制して平らな湖面のように静まらせ続けている。
そういった修練を若いときから指導されておればなと。
とりあえず、今からでも。
どの仕事に取り組むか決めて集中したほうが、得られるものが多いものです。
不安だから
A B C などたくさん、
選択肢があります。
どれも魅力的なものですが、
すべてを一緒にはできない。
でも、どれも今の自分が欲しいものに違いない。
そうなると、どれも捨てられない。
Aを選択して決めるということは、
BとCを失う苦痛と不安を味わいます。
思いついた以上はABCどれもが自分。
自分のものですから、大事にしたいし、
どれも魅力的すぎて目移りがしている。
夢想すればBもCもキラキラ光り「絶対、欲しい!!」
頭のなかが行動を選択できず燻り、混乱。
そうやって仕事をためていく性格ならば、
次にも次にもたまりに貯めてしまいます。
すると余計に混乱をきたしていきます。
B・Cを棄てさることがなければ、、、
Aだけに絞るということができません。
取り組んでみれば、
ことのほか集中して数時間で対処でき、
仕事がはかどってしまったというとき。
ならば、
AをおこないBを次に、そしてCをクリアして完成!
一時期でもB・Cを消し去る不安や苦痛を得て決断。
決断するということは、
何かを得るという行為ではありません。
決断するということは、
何かを捨てる行為です。
捨てることで完璧には、
なれなくなるでしょう。
損失には違いありませんが、
なにを失えば最大な損失か、
それを考えていくしかない。
そして手元に残されたものとの縁を感じ、
まずはそちらに全脳を傾けるようにする。
切れ味よく一刀両断。
即断即決せねば流れが早い急流は渡れない。
失敗する結果を恐れず、
リスクを取るしかない。
「捨てる決断の苦痛」の意を悟ったときに、
何に集中して生きていくのかの胎動を感じ、
霧が晴れて目的地の見通しがついてきます。
私は、自室で、神社仏閣等で、
数分間〜数時間、ゆっくりと、
イメージ冥想をしていきます。
たとえば体の各部分を感じ捨てる。
目を閉じて瞼の裏側を捨てるとし、
両手、両足、胴体、、、
それらをそれぞれを丁寧に感じ、
体の各部を捨てて消し去ります。
緊張もコリも張りも、捨てます。
そして空気に溶け込ませて無に。
す〜っと身が落ち着くのですが、
同時に心も穏やかにほどけます。
全身そうして丹念に意識を配る。
そして今している仕事を捨てて、
友達も捨てて、ペットの猫も捨て、
好きな場も捨てて、、、。
自分の性格もひとつずつ捨てます。
あらゆる不安や恐怖も妄想ですし、
そんなものにぼったくられません。
火を着けてボッと燃やしてしまう。
徐々に巨大な概念のようなものも。
そしてしばらくすると、
すっからかんになった爽快感。
なんらぶつかり合う葛藤の芽も失せて、
混乱させることもできない、
なにもないような容器がポッカリとイメージに思い浮かぶまでたどり着きます。
改めてこの容器に捨てることができないものだけを決断して入れていくのです。
ひとまずはモンドセレクション以上に厳選。
大事なものがわかれば、行動の目鼻は付く。 ^-^)
十把一絡げでパッケージされた分析不足の思いは混乱そのものです。
自分が何を持っているか、
手持ちの物が何であるか、
無意識層にヒタ隠れているものを、
こそぎ落として引っ張り出します。
顕在意識に浮かび上がらせていく。
そうすると仏教で言うような四苦八苦も理知で分解しやすくし、
それも決断で、「これは妄想です」「これは妄想じゃないです(電話料金の支払い等)」
のようにわけることができるようになりました。
すると多くの「これは妄想です」という、
メタ化して自分勝手な解釈で自分を苦しめ、
自分を錯覚で過大過小していたりもしているので、
そこも修正をしていきます。
私がこのイメージ冥想をし始めたのは何故か?
強烈きわまりなかった背中の張りを緩和させるためです。
背中の起立筋が仕事の重圧というのもしんどいですし、
それが心身ともに体の過労で疲れすぎさせていたり、
消費税が8%になったのが10%になるといわれて、
不安や恐怖で出るも戻るも、
決めかねる混乱状態のとき。
「身がすくむ思い」がしますが、そう体も反応していく。
そしてこの身のすくむ型こそが、自律神経系を殲滅させ、
運動も中心軸から末端へと力の流れが失われる要因です。
ですが「身がすくむ」という状態で耐えていること自体、
緊急避難をした状態で避難場所にいる快適状態なのです。
「身をすくめてれば、いいんだよ」という、
遣り手ババの甘言で、避難場所に居着いています。
それでは本当に起きてほしくないことが起きるまで、
な〜んにも備えをすることもしていないわけですし。
突然、降って湧いたような災難も、
特に体関係のものについていえば、
気づく前に前兆があったはずです。
起立筋を緊張させて身をすくめるのは、
外界からの攻撃からのよろいを着続けているということ。
だから自分の内側で巻き起こる葛藤を、
『決断するということは、何かを捨てる行為です』
というように動きやすいよう身支度を整えて軽くするため削ぐ。
肝の座った人物なら、腹をくくり行動します。
背中の起立筋が硬化し緊張、短縮する状態も、
昨日の話の続きではありませんが、
自己免疫力を削ぐためものですし。
余談ですが、
たしか合気道の植芝盛平翁の話でしたか塩田剛三師範の話でしたか、、、
多数どりという多人数が一気に飛びかかってくるという場合にも、
誰かが先に自分に到達するからそれを時系列的に捌けばいいんだ、
といっていました。
まさに1/100秒を感じ反応できれば、
そういった世界になるのでしょうか。
人としてABCのタスクを観れば、
各々が個性があり、出足の早さ違い、得意技が感じられます。
人が相手ですから人に和合してみれば、
様子が手に取るように見えてくるもの。
本能的な直感と日頃の修練が実を結ぶことで覚醒したのでしょうね。
誰が来るかの妄想し瞬間、すでにこちらの出足が遅れ致命的。
他のものが急所めがけて、襲い掛かられて終わります。
もともとが小さな体です。
襲われるストレスや恐怖を捌くときに、
精神を制して平らな湖面のように静まらせ続けている。
そういった修練を若いときから指導されておればなと。
とりあえず、今からでも。
2014年01月09日
内観フォーラムに参加させていただいて
1月7日。
内観法のフォーラムが青山大学で行われた。
そちらに参加させていただきました。
『内観法』とは。
私も以前にそのような名前を聞いた記憶があるなと思いつつも、
詳細はまったく存じ上げませんでした。
フォーラム参加の前に、
内観法の初心者本を読む。
ひとりカウンセリング的なのか。
Wikipediaで内観法を調べると、
・----------------------------------・
内観療法とは、本来修養法として開発された吉本伊信の内観法を医療、
臨床心理的目的のために応用する心理療法(精神療法)のこと。
1960年代から精神医療現場に導入されるようになった。
1978年には日本内観学会が発足している。
また、国際的な評価も得られており、
2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。
吉本のやり方をほぼそのまま行う内観原法と吉本のやり方に変化を加える内観変法がある。
また医師などの依頼で民間の研修所で行う場合と、医師が中心となって病棟内で行う場合がある。
内観療法の手順
病院で行われる場合と、民間の研修所で行われる場合があり、
以下は標準的な研修所で行われている方法である。
母、父、きょうだいなど、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての
今までの関わりを、
してもらったこと
して返したこと
迷惑をかけたこと
の3つのテーマにそって繰り返し思い出す。
これにより自分や他者への理解・信頼が深まり、
自己の存在価値・責任を自覚する事によって社会生活の改善につながると考えられる。
また内観療法は大きく分けて、内観研修所や病院で一週間篭って行う「集中内観」と、日常生活の中で1人で行う「日常内観」の2つのステージに分かれる。
集中内観では外界からの刺激が遮断された道場の中に、
屏風で狭く仕切った空間を作り、
その中で朝6時から夜9時まで続けて上のテーマについて一週間、
(6泊7日または7泊8日)内観していく。
途中1〜2時間ごとに訪れる面接者に対して、それまでに思い出した事を話す。
それに対して面接者は共感的態度で耳を傾け、かつ必要最小限の返答で応える。
その過程ではしばしば劇的な価値観の転換を伴うことがある。
・----------------------------------・
興味深いことに、
そのフォーラムの会場に入ると、
個人的な感覚であってそう宛にはならないかもしれないが、
眉間部分がぐぐと指で押されているかのような感覚がある。
そういうときは、
何らかの大切な考えのヒントがそこにあるという。
そちらに意識を集中していけよということだろう。
私が一番、内観フォーラムを通じて感じたのは、
内観フォーラム主催をなされた青山大学石井光教授が、
人はすべて教育というマインド・コントロールをされているものですから。
するとその教授の関係したゼミ生が、
洗脳とマインド・コントロールの違いを解説。
それは興味深い内容だと思う。
洗脳は、強制的に肉体に対しての懲罰なども伴うようなものもあるのだが、
マインド・コントロールは、無意識に相手に何を考え判断するかについて、
他人(または共同体感覚的意識)に価値判断を委ねてそれを尊重していく。
洗脳もこわいが、マインド・コントロールも始末におえない。
おそらく『洗脳』とか『マインド・コントロール』とかは、
すでに嫌な印象を植え付けられるような手垢がつきすぎて、
自然とそこから遠のいて身を守りたくなるものです。
ですが、、、
まっさらな状態でうまれた人間ですから、
何かに染まらなければ社会もできないし、
裸のままでは生きても行けない人間です。
人間の脳も、
パソコンのプログラムと同じようなもの。
ときにはこころもプログラムされたもの。
「自分」という一定の変数を含む公式ができあがっていて、
あらゆる状況に対処できるようなプレーンなアルゴリズムを形成している。
すると「自分らしい考え」が、
どのような状況にあったとしてもはじき出されていくことだろう。
そこで他人が多く関わって良い考え方はこういうものだと教化するという、
知恵を授けていただけることも大切なのだが。
「自分」らしい状態が、現状、あまり好きになれない。
そういったときには「自分を変えたい」から、
脳のなかの自分の見方という変数を変える必要が出てくる。
そのようなときに、
家族などの共同体感覚的つながりを密に感じることで、
自分を変えることができるのではないかという考えだ。
自分を作り出すに至った経過として、
多くの影響を受けてきた家族とのつながり。
そこを根っこから正面切って見つめていき、
自分を変えていく。
正直、親や兄弟が、どこまで自分のことを考えていてくれているのか。
それは、親や兄弟、親類縁者に直接聞いてみるのが一番いいのだろう。
すると、「さほど、あんたなんて、かまっちゃいられないしね〜」と、
覚めた答えが来ることだってありえる。
感動的なことも親から聞かせてもらえるかもしれないが、
得てして、それほど欧米のような家族に対しての愛など、
言葉に出して言えるような過程に育っていなければ。
その言葉が出てこないからという現状に、
ストレスを感じてしまうことになるだけだろう。
でも、そのようなところを直接、母に尋ねるのではなく、
自分の内側に問いかけていき、
本当に必要不可欠である共同体として生きるもの同士の感覚を呼び覚ますことに主眼が置かれた。
人の心は、自分の内側の変容でなりたっていける。
そこには、個の思いやりある気づきや発見が大事。
そこに気付き始めたら、
親からいつもおねだりをしたがっていたお子様から抜けだしていき、
大人の愛情が芽生えてくれることだろう。
その大人のセンスは、
一度芽生えれば他方に渡る社会性を円滑にしてくれるような、
強力なものとなり人生を明るく導くものと変わるだろう。
そこに親、兄弟、親類縁者との関係性を見つめなおし感謝の気持ちを、
分厚いケーブルで多量の情報を双方向に送れるかのようなパイプを作る。
それは別段、すでに亡くなっている親や祖父母のことであってもいいのだ。
人とのつながりを、感じる力。
そこが、しっかりすればいい。
アドラー心理学のアルフレッド・アドラー博士も、
人が幸せに生きるには、
・自分が好き、
・他人を信頼している、
・他人に貢献して生きていくことができる
という3つがあればいいといった。
この3つがそろわなければ、
どれひとつかけていても、
勇気をくじかれている人、
といわれた。
つまり他人を信頼するという力が内観で育てられ、
そんな信頼できる自分が大好きになり、
信頼している相手なんだからちょっとでも手助けしたい。
そうなっていくようなサポートをすることを、
アドラーは「勇気づける」といっていた。
内観は「勇気づける」力があるんだろう。
勇気を得た人間は、強い。
ちょっとやそっとじゃへこたれない。
それは、すでにとても幸せだからだ。
真に幸せに包まれて生きている実感があれば、
幸せを引き寄せるような脳が気配りをする。
好循環がそこに生まれ出せるだろう。
不幸から抜け出したいと必死であっても、
不幸を嘆き、
そうしている自分しか見えなければ、
それが自分らしいと当てはめてしまう。
そういったころあいでは、
自然と不幸を引き寄せるし幸運が訪れても脳がそれを自分にはふさわしくないとして
しっかりとスルーしてしまうものだ。
機械的にそうなされるだけなのだ。
悪循環は、そんなところから生じるのだろう。
今の現状、混乱した心で、
自分の胸の内側の世界で、
他人が好きだとか信頼しているとか、
そういった言葉を語りづらいものであっても。
軽くだけでも口に親兄弟やご先祖様にありがとうの言葉をだすようにできればいいと思う。
たとえ、難ありな親兄弟でも、
そこは自分が見方が大人になるための修行だろう。
つらい感じになるのではと思います。
そんなときには、
もし内観法に関心を持たれましたら、
内観のセッションを研修所などへでかけ受けてみてはいかがでしょうか。
また定期的に内観フォーラムをなさっておられるようなので、
そちらに参加して情報をえてみてもいいのではないでしょうか。
青山大学の学生の方々が、いろいろとお世話をしていただいて、
感謝の念が募ります。
ありがとうございました。m__m
貴重なフォーラムで参加させていただけてよかったです。
また知り合いの方が、
去年にゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想の10日間コースを3連続受けてきたという。
私もヴィパッサナー瞑想の本は多数出版されているため数冊、目を通していて、
内観法は知らねどもヴィパッサナー瞑想のほうは、少なからず馴染みを感じていた。
内観法が、ヴィパッサナー瞑想にも合い通じるところがあるのではないか?
フォーラムに参加している方の中にもヴィパッサナー瞑想を経験した方がいるようでした。
それに内観法について、
変な宗教団体のやっていることじゃなかろうかということで、
内観法に関心あり内観フォーラムを参加した親御さんがついてきていた。 ^-^)
実に仲の良い親子じゃないの。
私にはそう思えた。
幸せを実感して生きる。
親の子離れとか、
子の親離れとか。
テレビのワイドショーで懸念している視点もあるが、
十把一絡げにして取り違えてはならないところもあるのですから。
ただフォーラム中の10分間内観というショートセッションで、
驚くほど意識を失って眠ったようになっていた。
なにも、覚えちゃいない。。。
少しずつ下半身の力を強化するトレーニングを始めているので、
力を意図的に振り絞っていく練功十八法的な感じの練習でして。
膝下の使い方が、いまいちわからない。
つかめない。
これがつかめないと、施術の再開ができない。。。ーー;
だからその練習で最近はくたくたな感じで、
眠くて暗くすると意識を失うこのごろでした。
内観法のフォーラムが青山大学で行われた。
そちらに参加させていただきました。
『内観法』とは。
私も以前にそのような名前を聞いた記憶があるなと思いつつも、
詳細はまったく存じ上げませんでした。
フォーラム参加の前に、
内観法の初心者本を読む。
ひとりカウンセリング的なのか。
Wikipediaで内観法を調べると、
・----------------------------------・
内観療法とは、本来修養法として開発された吉本伊信の内観法を医療、
臨床心理的目的のために応用する心理療法(精神療法)のこと。
1960年代から精神医療現場に導入されるようになった。
1978年には日本内観学会が発足している。
また、国際的な評価も得られており、
2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。
吉本のやり方をほぼそのまま行う内観原法と吉本のやり方に変化を加える内観変法がある。
また医師などの依頼で民間の研修所で行う場合と、医師が中心となって病棟内で行う場合がある。
内観療法の手順
病院で行われる場合と、民間の研修所で行われる場合があり、
以下は標準的な研修所で行われている方法である。
母、父、きょうだいなど、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての
今までの関わりを、
してもらったこと
して返したこと
迷惑をかけたこと
の3つのテーマにそって繰り返し思い出す。
これにより自分や他者への理解・信頼が深まり、
自己の存在価値・責任を自覚する事によって社会生活の改善につながると考えられる。
また内観療法は大きく分けて、内観研修所や病院で一週間篭って行う「集中内観」と、日常生活の中で1人で行う「日常内観」の2つのステージに分かれる。
集中内観では外界からの刺激が遮断された道場の中に、
屏風で狭く仕切った空間を作り、
その中で朝6時から夜9時まで続けて上のテーマについて一週間、
(6泊7日または7泊8日)内観していく。
途中1〜2時間ごとに訪れる面接者に対して、それまでに思い出した事を話す。
それに対して面接者は共感的態度で耳を傾け、かつ必要最小限の返答で応える。
その過程ではしばしば劇的な価値観の転換を伴うことがある。
・----------------------------------・
興味深いことに、
そのフォーラムの会場に入ると、
個人的な感覚であってそう宛にはならないかもしれないが、
眉間部分がぐぐと指で押されているかのような感覚がある。
そういうときは、
何らかの大切な考えのヒントがそこにあるという。
そちらに意識を集中していけよということだろう。
私が一番、内観フォーラムを通じて感じたのは、
内観フォーラム主催をなされた青山大学石井光教授が、
人はすべて教育というマインド・コントロールをされているものですから。
するとその教授の関係したゼミ生が、
洗脳とマインド・コントロールの違いを解説。
それは興味深い内容だと思う。
洗脳は、強制的に肉体に対しての懲罰なども伴うようなものもあるのだが、
マインド・コントロールは、無意識に相手に何を考え判断するかについて、
他人(または共同体感覚的意識)に価値判断を委ねてそれを尊重していく。
洗脳もこわいが、マインド・コントロールも始末におえない。
おそらく『洗脳』とか『マインド・コントロール』とかは、
すでに嫌な印象を植え付けられるような手垢がつきすぎて、
自然とそこから遠のいて身を守りたくなるものです。
ですが、、、
まっさらな状態でうまれた人間ですから、
何かに染まらなければ社会もできないし、
裸のままでは生きても行けない人間です。
人間の脳も、
パソコンのプログラムと同じようなもの。
ときにはこころもプログラムされたもの。
「自分」という一定の変数を含む公式ができあがっていて、
あらゆる状況に対処できるようなプレーンなアルゴリズムを形成している。
すると「自分らしい考え」が、
どのような状況にあったとしてもはじき出されていくことだろう。
そこで他人が多く関わって良い考え方はこういうものだと教化するという、
知恵を授けていただけることも大切なのだが。
「自分」らしい状態が、現状、あまり好きになれない。
そういったときには「自分を変えたい」から、
脳のなかの自分の見方という変数を変える必要が出てくる。
そのようなときに、
家族などの共同体感覚的つながりを密に感じることで、
自分を変えることができるのではないかという考えだ。
自分を作り出すに至った経過として、
多くの影響を受けてきた家族とのつながり。
そこを根っこから正面切って見つめていき、
自分を変えていく。
正直、親や兄弟が、どこまで自分のことを考えていてくれているのか。
それは、親や兄弟、親類縁者に直接聞いてみるのが一番いいのだろう。
すると、「さほど、あんたなんて、かまっちゃいられないしね〜」と、
覚めた答えが来ることだってありえる。
感動的なことも親から聞かせてもらえるかもしれないが、
得てして、それほど欧米のような家族に対しての愛など、
言葉に出して言えるような過程に育っていなければ。
その言葉が出てこないからという現状に、
ストレスを感じてしまうことになるだけだろう。
でも、そのようなところを直接、母に尋ねるのではなく、
自分の内側に問いかけていき、
本当に必要不可欠である共同体として生きるもの同士の感覚を呼び覚ますことに主眼が置かれた。
人の心は、自分の内側の変容でなりたっていける。
そこには、個の思いやりある気づきや発見が大事。
そこに気付き始めたら、
親からいつもおねだりをしたがっていたお子様から抜けだしていき、
大人の愛情が芽生えてくれることだろう。
その大人のセンスは、
一度芽生えれば他方に渡る社会性を円滑にしてくれるような、
強力なものとなり人生を明るく導くものと変わるだろう。
そこに親、兄弟、親類縁者との関係性を見つめなおし感謝の気持ちを、
分厚いケーブルで多量の情報を双方向に送れるかのようなパイプを作る。
それは別段、すでに亡くなっている親や祖父母のことであってもいいのだ。
人とのつながりを、感じる力。
そこが、しっかりすればいい。
アドラー心理学のアルフレッド・アドラー博士も、
人が幸せに生きるには、
・自分が好き、
・他人を信頼している、
・他人に貢献して生きていくことができる
という3つがあればいいといった。
この3つがそろわなければ、
どれひとつかけていても、
勇気をくじかれている人、
といわれた。
つまり他人を信頼するという力が内観で育てられ、
そんな信頼できる自分が大好きになり、
信頼している相手なんだからちょっとでも手助けしたい。
そうなっていくようなサポートをすることを、
アドラーは「勇気づける」といっていた。
内観は「勇気づける」力があるんだろう。
勇気を得た人間は、強い。
ちょっとやそっとじゃへこたれない。
それは、すでにとても幸せだからだ。
真に幸せに包まれて生きている実感があれば、
幸せを引き寄せるような脳が気配りをする。
好循環がそこに生まれ出せるだろう。
不幸から抜け出したいと必死であっても、
不幸を嘆き、
そうしている自分しか見えなければ、
それが自分らしいと当てはめてしまう。
そういったころあいでは、
自然と不幸を引き寄せるし幸運が訪れても脳がそれを自分にはふさわしくないとして
しっかりとスルーしてしまうものだ。
機械的にそうなされるだけなのだ。
悪循環は、そんなところから生じるのだろう。
今の現状、混乱した心で、
自分の胸の内側の世界で、
他人が好きだとか信頼しているとか、
そういった言葉を語りづらいものであっても。
軽くだけでも口に親兄弟やご先祖様にありがとうの言葉をだすようにできればいいと思う。
たとえ、難ありな親兄弟でも、
そこは自分が見方が大人になるための修行だろう。
つらい感じになるのではと思います。
そんなときには、
もし内観法に関心を持たれましたら、
内観のセッションを研修所などへでかけ受けてみてはいかがでしょうか。
また定期的に内観フォーラムをなさっておられるようなので、
そちらに参加して情報をえてみてもいいのではないでしょうか。
青山大学の学生の方々が、いろいろとお世話をしていただいて、
感謝の念が募ります。
ありがとうございました。m__m
貴重なフォーラムで参加させていただけてよかったです。
また知り合いの方が、
去年にゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想の10日間コースを3連続受けてきたという。
私もヴィパッサナー瞑想の本は多数出版されているため数冊、目を通していて、
内観法は知らねどもヴィパッサナー瞑想のほうは、少なからず馴染みを感じていた。
内観法が、ヴィパッサナー瞑想にも合い通じるところがあるのではないか?
フォーラムに参加している方の中にもヴィパッサナー瞑想を経験した方がいるようでした。
それに内観法について、
変な宗教団体のやっていることじゃなかろうかということで、
内観法に関心あり内観フォーラムを参加した親御さんがついてきていた。 ^-^)
実に仲の良い親子じゃないの。
私にはそう思えた。
幸せを実感して生きる。
親の子離れとか、
子の親離れとか。
テレビのワイドショーで懸念している視点もあるが、
十把一絡げにして取り違えてはならないところもあるのですから。
ただフォーラム中の10分間内観というショートセッションで、
驚くほど意識を失って眠ったようになっていた。
なにも、覚えちゃいない。。。
少しずつ下半身の力を強化するトレーニングを始めているので、
力を意図的に振り絞っていく練功十八法的な感じの練習でして。
膝下の使い方が、いまいちわからない。
つかめない。
これがつかめないと、施術の再開ができない。。。ーー;
だからその練習で最近はくたくたな感じで、
眠くて暗くすると意識を失うこのごろでした。