2022年12月31日

言い方、伝え方が大切

本年一年、大変お世話になりました。

2023年も、どうぞ変わらぬごひいきをいただけますよう、
こころよりお願い申し上げます。


コロナ陽性のお客様が増えて、ひとつきまるまる休業させていただいたときもありました。
そうした時期は施術をお客様に提供させていただく機会が失われ、
中医学診断の勉強に取り組ませていただいた時期です。
買い出し以外は外出を避けて自宅にこもり続け、
集中して勉強をさせていただきました。

その結果、いままでなら気に留めなかったお客様から表出するしぐさや脈や顔色などに意味があって、
そこから、要領よく情報を得られるようになりました。
『猫に小判』という諺がありますが、
猫に高額小判をあげても、それでキャットフードが手に入るとは認識していないので、興味なしです。
それが『私に小判』なら、ラッキーと躍り上がるでしょう。
それを価値が高いものだと認知したら目がそこに引き寄せられます。

不思議なもので、
以前、お客様のボディチェックをさせていただいたときに「10」の情報を得ていたのが、
それよりも質や量の多い「30〜50」もの情報が目に飛び込んできて、意味を理解する。
その力が、いままで気づくことのなかった不具合部位を見出せるようになり、
さらにお客様のお身体の状態を上向ける施術へと変わっていくのですね。


ですがお客様に対して伝える言葉は多くはなく、
医師でもない私には診断といったことができることもないため、
やんわりと「〜といった傾向があるんじゃないでしょうか」というにとどまります。

ですがときに大事なお客様に危機的な状態を感じ取れたことが2〜3のケースで見いだせていて、
そのときはひょうひょうとした対応を心がける私にはめったにないような真剣な顔で、
「ぜひこのような運動はやめていただきたいのです」や
「ぜひ、漢方医や鍼灸院により東洋医学的な専門的checkをしていただけないでしょうか」など、
切羽詰まった心持でお伝えしたことがありました。

ただ、そのときの私の言い方が適切だったかどうか。。。
いまも心に引っ掛かり、申し訳ない気持ちになることがあります。

お客様には、めったに見えてこない真剣で切実な物言いをする私に、
得体のしれない緊張を感じられ不安や不快さを持たれたことでしょう。
そういうようなネガティブな気持ちにさせてしまうことは、
ぜったいに割けるべきことと思いつつも、
がけっぷちにおられるといった状態が目についてしまう。
もちろん望診等で、見て取れている情報について伝えることは、
顔に表出するクマ等でのことなどわかりやすいものがあります。
それは鏡を一緒に観て、中医学診断のテキストの該当ページを表示しさせていただければお客様にもわかります。
ただ脈診などは、それを正確に整理して伝えるには互いに診断法を熟知するものでなければかないません。。。

そんなとき、心がけるべきインドのホーリーマザーという方の言葉を思い出します。


【他人の気持ちを傷つけるような言葉を使うのはよくありません。
 たとえ真実であったとしても、言われた人が嫌な気分にならないような言い方をしなければなりません。 】


私がたまたま母が末期がんのときに鍼灸院へ訪れたとき、
母の脈をとってなにかを知ったはずの鍼灸医の頭の中が見当がつかず、
内容を話してもらおうとしても難しくてわからず。。。

でも、その先生のやさしい雰囲気の笑顔や包容力を醸し出す様子から、
なにか大事な安心をいただけた印象が残っています。


真実は真実。
それは変えられるものではないのですが、
ですがそれをどうつたえるかという思いやりの気持ちが育っているものかどうか。
そうしたところに品位や品格、そして上品さのようなものを持つようになりたい。

もしさらに本質的なところへ中医学診断を勉強し始めたら、
そういった上品さや思いやりの心を深める必要があると思えてなりません。
posted by スズキ at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月16日

散文的ですいません。 ボウエンテクニックの身体改善イメージをメンタルメンテナンスが得意なセッションという印象に変えていきたく努めています。

本日はお墓参りの予定が、コロナ禍の影響から、
自宅で書籍のPDF化作業をしながらTverを観ています。


私が好きな仲村トオル主演のドラマ。
八月は夜のバッティングセンターで。

毎回、仲村トオルさんから心に刺さる言葉が送られます。
そのなかでも、私が一番うなった回は以下の、、、。

『三回 千本ノック』です。(Tverの該当ページは以下に 8月22日(月)23:59 終了予定
https://tver.jp/episodes/epzottzhdj




たとえば、
「バッティングも料理もおんなじだよ。専門家から教えてもらって何度も練習をするのが一番だ。」

確かに、その通りなんです。
共感します。



個人的なつたない体験ですが。。。
昔、こどもの小学生のころ、少年野球にはいったとき。
監督やコーチなどは、手取り足取り教えてくれる余裕はない。
運動オンチの私は、はしっこでうろちょろしているだけ、助けてもらうこともできない。
見るからにひ弱で、鍛えようにも故障させないようにするのがいいだろうと監督は思ったのかもしれません。

そこで、考えました。

じゃ、自転車に乗って巨人軍の多摩川グラウンドに見学に行こう。

かつて昭和30年代 - 昭和50年代にかけて読売ジャイアンツが
ファーム(二軍)の本拠地球場及び練習場としていた巨人軍多摩川グラウンドがあったのです。
当時、私は小林 繁選手などに軟式ボールにサインをせがむ失礼な小僧でした。

巨人軍選手に教えてもらえるわけじゃないのは当たり前ですが、
遠くないところでプロ野球選手のプレーが目の当たりにできた。

当時、ボールを投げる力がなかった私は、身体をすべて使って投げるプロの練習に出くわした。
外野からキャッチャーに向けて、信じられない力強さの返球を目の当たりにしました。
その瞬間、私は身体が動作せず手の肘から先だけを振る手投げでボールをほおっていたことに気づいたのです。

それから見よう見まねでカラダを統合させてボールに体重を乗せる投げ方を練習しました。
とにかく、ボールを投げるときに握ってるボールのことは一切忘れます。
身体の一連の部位が協調的かつ全体的に作動しだして、
徐々にフォームが整えられて繰り出されたとき。
「握ったボールを放す」瞬間、いつもよりボールに威力が増したのです。
「体の伸張とねじりたたむことが必要なんだな・・」と一人うなづいて、
筋力がなかった自分でも、たやすく速い球が投げられだしました。


独りきりでボールを投げる練習をいくらしていても、
こうしたポイントを得て確信をもって練習をすることはできなかったはずです。

そんなところから、いまもそれで飯を食うプロはすごいと信じています。



そんなことを思い出しながら、
「バッティングも料理もおんなじだよ。専門家から教えてもらって何度も練習をするのが一番だ。」
というドラマの言葉に共感し「そうなんだよ〜」と感動しています。



どんなに難しいことでも、
百戦錬磨のプロが目の前で手ほどきをしてくれると、
そんなことできる人がいるわけがないという思いのハードルが下がります。



ちなみに、
この言葉に便乗させてもらって、
「バッティングも料理も『整体の施術』もおんなじだよ。専門家から教えてもらって何度も練習をするのが一番だ。」

たとえば、私はボウエンテクニックという施術を日本で講習会を一年間かけて、通って学びました。
一年間毎日というわけではなく、アメリカからくる講師の都合から月にとか飛び飛びなんですが、
それまでボウエンテクニックの洋書や映像を穴のあくほど見たとしても、
ボウエンテクニックはすばらしいと米国で出版されるマッサージマガジンに賞賛されていた意味が分からなかったのです。
賞賛の文章から私利私欲のない素のままの言葉を述べたものでした。
どうしても得体のしれない秘密がそこに広がるような気がして、
気になって仕方ありませんでした。

そしてボウエンテクニックの受講を決める前のこと。
一度、ボウエンテクニックの講師のミトさんにボウエンテクニックのセッションを依頼し、
受けてみたとき。

大多数の施術技術では西洋医学的な流れで、病状を判定して原因を知り、的確に結果得るためのエビデンスに従った手技アプローチをおこないます。

だがボウエンテクニックの場合は、そのセッションを創始したトム・ボウエンは東洋医学に精通した人で、
西洋的な見地で施術の方法論のみを取り入れて組み立てたわけではなく、
東洋医学的な経絡などの知見を含め、またはそこをベースにして融合させたセッションをあみ出したのだと気づきました。

そのとき「なぜ、マッサージマガジンでボウエンテクニックのことを賞賛していたのか」わかりました。
そして賞賛する言葉が具体性に欠けていたミラクルとかファンタスティックといった言葉がちりばめられていたのかもわかりました。
それはボウエンテクニックを受けた帰り道に、私もセッション中に不思議な体験をし、感情や意識於解放がはかられたといった、
唯物論的な基礎を持つ西洋の手技療法の遺伝子から、
施されて起きたことは意図度も経験したことがなかったことが、そこの体験に広がりました。





自律神経の不調が治まりだし、根深いところにあったトラウマと、そのときの恐怖から、
起きもしない、または起きてもいないことさえも怯えの対象としておそれ続けます。

そうしたせつない感情を通り越した恐怖から身をすくめて感情を閉ざして逃げると、
そういった人間が発する特別な波動がでていくでしょう。
そうした波動に共感した者やなにかが集まりだしていき、
さらにきびしいトラウマからの恐怖が増長して幸福感が削がれていくことになります。

そうしたことで感情を壊して苦しむことが、人には多かれ少なかれあります。
そのトラウマが親や身内から与えられたものであれば、本人が気づかないうちにずっとそれを引きずるということもあるでしょう。
しあわせを思考したときには人はそれを現実化させる力があります。
ナポレオンヒルが、著書で綿密にその内容を語っています。
そして恐怖を思考したときにはひとはそれを現実化させるのです。

ボウエンテクニックをならったときには、
別段、そうしたトラウマリリースに優れていると、ことさらに解説されることはなかったと思います。
ですがNAETというアプライドキネシオロジー系の書籍の経絡について詳説する項に照らし合わせれば、
そういった、内面へのアプローチができてしまうこともわかります。

だから私の内部でくすぶっていた苦しみや憎しみの感情のうずのなかから、さっと外に出て冷静で愛あるもう一人の自分が覚醒し、
自己のメンタルをメンテナンスしてくれた。
それがおそらく私がボウエンテクニックをミトさんから受けたのは90分ほどのセッションでしたが。。。
貴重な私の内部エネルギーをどぶに捨てて自身が不幸にさいなまれるといったこころのスイッチをOFFにでき、
より人生がうまくいくようなこころのスイッチをONにしてくれた。
セッション中、ずっと不思議なビジョンを見続けていました。

神社仏閣に、その当時、お参りするのがマイブームでしたが、
それら神が導いてくれたのか?!
そう感じて、帰りに東京大神宮に参拝したことを思い出します。
私には、施術でまさかそのようなことがありありおきるのかと、
期待もしなかった速効体験は、神秘的であり、神聖さを感じたのです。




そうした体験をしたら、そのボウエンテクニックのセミナー。
セミナー料金がどんなに高くても、私には通うしか選択肢はありませんでした。
要領の悪い私がさっと身に付くわけはないとわかってましたが、
まずは専門家のミトさんにならったという経験を得て、
その後、何年もかけてそれを咀嚼して練習をしていく。


野球のバッティングも料理も、未経験すぎるときにそのやり方を本で学ぶのはむずかしい。
そして施術も、そうですよね。
やはり専門家に教えてもらってから、それから何度も何度も自分で修練を繰り返して身につけるのが一番いい。
専門家の高いレベルを教えてもらえる機会は、そうあるものじゃありませんし、
日本でボウエンテクニックを日本語で学べるなんて、超ラッキーです。
いまも、ときおり、当時のセミナーのテキストを引っ張り出し、
そこの書面に書かれているテクニックの奥を掘るようにがんばってます。



ちなみにボウエンテクニックは、東洋医学の技術や考えが創始したトム・ボウエンにはあったといいました。
彼は中医学書を穴のあくほど読み、それを自分のモノとしていく過程で得られた、中医学と西洋医学で言う臓器の概念の違いを分かって、
そのうえで経穴や経絡に独自のアプローチの方法を加味し、最晩年まで研究し進化をし続けた人だったようです。
そのような彼の伝記、かなりぶあつい洋書ですが買って読むことで、作曲家の作品を作ったときの背景を知るアナリーゼをするかのように、
彼の仕事の取り組みの流れを知ることは、私には興味が尽きないことですしヒーローものの物語を読むように楽しいときでもあります。



ただ、、、私がボウエンテクニックの講師のミトさんにセッションを受けたときのような、
メンタルメンテナンスが起きて本来の自由で束縛のないわたしを覚醒させるということは。
すぐにそういった技が使えるようになるわけではなかったです。
それをしたいなら、これからでも根性論ではなく方法論となる千本ノックを受け、
もっと施術がうまくなりたいと思えてなりません。


人は、メンタルメンテナンスが進んであなたが覚醒する(※)と、
いまそれが起きていない恐怖のトラウマにこころ苦しめられて、エネルギーを放逸して失うこともしません。
意識が変われば世界が変わる体験を通し、カルマの垢がひとつとれて、浄化して最高にたのしいときを創れる階段を登り始めます。
(※←自分をトラウマの渦中から離れた引いたところから眺められ、ありがとうと、そこからも学べるものがあったと気づいて、ネガティブな波動や感情を手放していくこと)

私にはボウエンテクニックには、またはボウエンテクニックを一部使った私の施術法には、
いつかそうしたメンタルメンテナンスが肉体に対してやさしいアプローチをすることで
引き出せるようになってみたい。


コロナ禍の影響。
このときに身に降りかかったこころの傷そして恐怖の思い。
そのような体験で得たトラウマを背負うことも、人によりあるでしょう。
心理カウンセリングにより、それを拭うということが一般的に発想されることでしょう。
身体からの対応により、それを拭うような選択肢があらわれるよう育ててうまくなりたいですね。
たやすいことではありません。
ですが大切な取り組みであろうと感じてしまいます。



そこが少しでもできたら「これ、ぼくの天職です」と、屈託ない笑顔でいえるはずです。



posted by スズキ at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月11日

人を応援することでやる気スイッチを入れる方法

このブログをお読みいただきたい方:

■ 「やる気スイッチ!」を入れたい方へ簡単なテクニックを伝授!?





施術の話ではありません。


60代後半の女性のお客様から、
やる気がでなくて困ってます』と。


最近の世界を含めた日本や社会情勢を考えて、
テレビのワイドショーを観れば気持ちがわかります。

そこは私がつっこむところじゃないと思いつつも、
過去私が通ったことがあるコーチングスクールの授業が音声で聞くことができます。
そちらでおもしろい特訓をしていました。

『コーチの<うん、うん>は、魂を込めて発すること』

普通に人の話を聞くときにも<うん、うん>とあいづちをうちます。


ただ私が知るコーチはちょっと違います。

コーチは、プラスワンステートといって、
クライアントのテンションよりも、プラスワンという増しましで接するのです。


どういうことかというと。。。



適当なたとえですいませんが。。。

たとえばですが、
アルプスの少女ハイジ」の名シーン。

足を患って立てないクララが立ちあがったところで

「すごい!すごい!クララが立った!!」


と驚きと歓声の声をハイジがあげました。

親友のクララが勇気をだして、自分の脚で立ち上がった瞬間。
クララも必死になって萎えた足で生まれたてのバンビのようにぐらつきながら立とうとして、立てた!

これでクララの人生も変わる!!
なんてすばらしいことなの!

という思いがぎっちりてんこ盛りでこもった、「すごい!すごい!」です。

( もしかしたら、すごい!とハイジは言ってなかったかもしれませんが、そんな雰囲気ということでご理解ください ^-^;)


そのときのハイジになったつもりで「すごい。すごい!」とクララに喜びと賛辞を伝える歓喜のテンションの発声です。
その感動ボリュームをハイパワーにした「すごい。すごい!」を数分言い続けます

それから「すごい。すごい!」という発声の勢いはそのままに、
<すごい!>を<うん!>に言葉を入れ替えて「うん。うん!」と歓喜のテンションでうなりながらうなづくんです。




するとどうでしょう。


先ほどまでクライアントが何を話していいか当惑していたとしても、
<すごい!>を<うん!>に言葉を入れ替えて「うん。うん!」とうなづかれると。


そのあいづちの波動を浴びれば、もう、すごく気分よく話が盛り上がっていきます。
それがきっかけでクライアントは発話する勇気も喜びもわきあがる(こともある)。
それが一人きりでは出せない発想や行動にまで、スムースにたどり着く力なのです。

それがもしかするとコーチが高額なフィーをいただける秘密の一端では?
これ、意外なほど大事なテクニックなんです。


「うん。うん!」と魂を込めてうなづくコーチ自身も、
前向きに話を聞きたい気持ちが盛り上がるでしょう。

コーチのうなづきを使ってモチベーションを引き上がった友人や家族の姿を目の当たりにすると、
『コーチをした自分もできるんじゃないのか!?』と脳内のアドレナリンがでてくるのです。



こうしてコーチもクライアントも、コーチングにより道が開けていくんですよね〜。




これ、コーチを受けてみたらわかりますが、受けてみても『やる気スイッチ』のスイッチオン!しますし、
コーチになってみた気持ちであいづちしてみても、強力な『やる気スイッチ』のスイッチオン!なんです。


つまりクライアントのモチベーションアップの火をつけることで、
そのときの火力次第ではコーチにも熱さが伝わって火をつけてくれるわけです。




ここでは難しいモチベーションアップの理論は一切関係なし。

ものの5分間、コーチの魂を込めたうなづきを練習すれば、
がっちりモチベーションの覚醒成果を目の当たりにできます。







そうしたうなづきをすることで自分がしあわせを感じられているときに、
もしうなづきを聞いた相手にダメ出しされたならば。。。


たとえば、こんな風にです。

こんな、ご時世に、あんたは気楽でいいわね。」と嫌味をいう人もでてくるかもしれません。


もちろんTPOを考える必要はあるので、
そこはクリアできているときの話としておききください。

それであなたのしあわせを感じるモチベーションアップのうなづきに冷や水を浴びせかけるような人がいたら、どうするか。

そういう人の多くは、自分の優位性を主張したいという欲求から相手のやることの腰を折って人を不幸にする人です。
人が元気にしあわせにがんばろうとするなら、「がんばってるね」でいいと思うんですが、
人がしあわせになろうとする歩みの足を引っ張って邪魔して笑う人がいます。

そのような人が「言葉のトゲ」を突き刺しに来ても、
同調せず距離を置くようにするのが賢明でしょう。


そういう人に負けて丸め込まれて、気をもってかれてはなりません。


人生で勝つためには、自分もそんな嫌味をいう人になることはないようにして、
「がんばってるね」と声を送れる人でいつづけ、
「すごい。すごい!」と熱意を込めてエールを送れる人でいたいですよね。


そうした気持ちで入れる人ほど、こころも身体も健康をキープできるような免疫力が高まると思うんです。
いかがでしょうか?



※ コーチごとに、各自スタイルがありますから、
  すべてのコーチが「プラスワンステート」のあいづちをなさっておられるわけではありません。
posted by スズキ at 16:31| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月29日

ココロを大きな心配事やマイナスのストレスで満たさず、他のもので満たすと。カラダにも変化が見受けられた、という話。

半年ペースで施術をさせていただいたり、
渋谷等であって仏教の話などをさせていただいている方がいます。

昨日は、その方の施術。



プライバシー保護のため詳細はつたえられませんが、
長年考えていた転職を果たし次の会社に移る前の、
いま務める会社での長期有給休暇の消化中とのこと。

コロナの影響下での転職は募集会社の数も減り、
応募人数は増えているようです。
転職時期として大変だったと思うのですが、
就活で面談中の会話で自身の性格に合致した会社が気に入り、
そして先方の会社もそう感じていただけて相思相愛関係に。
内定がえられたそうです。


10年近くの月日を転職にかけて、
妥協せず会社を選び続けてきた。
我が居場所を見つける前向き姿勢に、彼らしさを感じました。
人一倍、繊細かつこだわりの強い御仁で、
その者がこの浮き立つような笑顔です。

おめでとうございます!
事前に転職したと聞いていたら、
ささやかな贈り物を用意したかったですね。
それは今度、といたしましょう。


彼は、これが『 運だ 』と言ってました。
いい表現だなと感じました。


ラジオをたまたま聞いていたら職を得る大変な時期が今だとのこと。
「一件の単発パートの募集に、100名の応募がある時期」と聞きました。
手に職を持っていたり、知力や戦略に長けた適応力を持つものでもない限り、
就職や転職に動くには難しい時期。



それは変わらないが、どんな大変な時期であっても、ツイてる人はいるものです。
ツキといっても、棚からぼたもちではありません。

十分準備をした者が身から放つ人を引き付ける厚いオーラによりもたらされたもの。
そういった者が「運を味方」にしだすと強い。

そこをまざまざと見せてもらった。
いい勉強になりました。



彼が感じていた今までの会社でのつらい部分と言えるメンタル部分のストレスが消え、
これから自信を持って力を出し切ろうと気合の入る場を得られたためか。

施術前のボディチェックでみると、
身体状況は、いつものカラダのゆがみパターンが軽減されていました。
仙骨尾骨部に複雑な捻じれや前後屈といえそうな大胆なずれを付けて、
それを手放しづらかった身体的特徴も、おおよそ半分以下へ収まっていた状態。

シンプルに、メンタルとボディの相関を感じ取らせていただけました。




エドガーケーシーの言葉がメールで送っていただけるメーリングリストでは、
本日は以下の言葉でした。


(問)この人はどのようにすれば心配事をなくすことができますか?
(答)心を何か他のことで満たすことだ!


コロナの影響で多くの人々や社会がたいそうなつらい状態に陥り、自身へその災いが訪れる恐怖心を持たないものはいない。
そのようなときであれば、多くの方々は、コロナ前とは違う歪み方を示す時期でもあります。
それを私は読み取ることで、肺経や心経などに置ける気の停滞を解除させて通すようにするのですが、
この方には、そのようなことをすることはありませんでした。

というか、いつもなら胸郭の狭窄ぎみとなった変位個所があるので、そちらに時間をかなりかけて手を尽くすのですが、
そのような胸郭のつぶれ気味となっているかつての部分が自動的に復活しているかのように良好。
回数を重ねてリリースを加えても変換に抵抗を感じた個所でしたが、
そうした理由の一端をみるようでした。

彼にとって多大なストレスフルな仕事の場で、その身に感じ続けてきたことを物語れます。
ココロのつらさを軽減させるために、人は無意識のうちに呼吸の制限をさせる部位に凝りを作り出し、感情を麻痺させる対処をするのです。
彼には10年弱という長期にわたる心身への負担とその蓄積であったのだろう。。。




そういった、身体の胸郭前部の閉塞したような詰まりが改善していたところからも、
彼がこれからの職場環境や仕事についてポジティブなかかわりでがんばろうという気持ちがあるとわかります。
そういう気持ちでいるおかげで、身体が喜び、活気づいています。


心を心配事で満たさずに、他のことで満たすことの大切さを教えてもらいました。



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posted by スズキ at 14:45| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月21日

思考や感情由来でカラダをゆがませてしまった沼にはまると、抜けられないって、なぜ?

人間関係上の問題から、心身に異常をきたす方も少なくありません。
お客様からのお話で、職場、身内との人間関係の悩みなど、。。

たとえば、
「『非難すること』にたくさんのエネルギーを使っている組織や人」の存在があります。

そういう組織や人は、だれも責任を取らない有害な文化を作り出します。
物事が計画通りに進まないのは他の誰かの責任、誰かの失敗ということになります。




その行為でどのような結果を作り出したいでしょうか?





たとえが悪いかもしれませんが、
政治の世界でいうならば、与党を非難ばかりしている野党のようです。
良策や良案をもって自らの進む道を指し示そうとしてくれていません。
こうなったのはすべてが与党の責任だしそちら様の失敗だという。

相手以上に考えぬいた形跡が見える代案は提示することをしない。
それで野党の伸びしろや実力を、どうやって知ればいい?
非難する役割と割り切ってそこにばかりエネルギーを消費して、
自らが責任を感じ建設的なことへエネルギーを割いていない。


そのようなシーンを国会での討論などで拝見するようなとき、
「与党も与党だ、だが野党も相変わらずだ」と感じるのです。


これは人に対しても同様です。
人を非難することばかりにエネルギーを使いすぎているものは、
「こうなったのはあんたのせいだといい続ける」ものです。。。

100歩譲って、そこに相手の失敗があったかもしれません。
だがいつまでも過去のことにしがみついて、
相手が至らないと非難することにたいそうなエネルギーを費やすならば。
そこでなにが起きているかといえば、
自分を建設的な力で満たし変化させ、
向上発展させる責務を放棄しているのでしょう。

自分では責任を取らない、自分には責任などない。
すべてはあなたのせいだと責め攻撃したり、恨んだり。


非難されても、政治家は肝が据わりさほど動じません。
野党からの非難が集中される国会答弁は、慣れている。
うまいことその場を切り抜ければいいだけのことだと。

もし野党が冷静で与党を上回る深淵熟慮した建設的な大案をだされるようなら、
そこは慣れていない与党が、真剣に自身の立場に危機感を感じることでしょう。






ですが人と人との人間関係上の問題で、
ただただ非難することに多大なエネルギーを割き続ける人がいたときは大変です。

対象が「人がいい」といわれるような人だとすれば、
一方的な暴力的ふるまいだということに気づかず、負のエネルギーに巻き込まれていく。

たいてい非難するものの主張は偏狭なもので、
なんでそんな一方的見解で非難し続け、
自己正当性を押し出せるかが信じられないものです。
自身のやっていることを棚上げにできるものじゃないと、
この非難しっぱなしという荒業はなしえないので。

そんな相手の非難押しにのまれ、
びっくりしたり動揺したそぶりをみせたらエンドレスで責めていいという許可をもらえたと勘違いして、
どえらい災難が身に降りかかってくるようになる。



上司のパワハラ行為の裏に、こんな図式があれば、
きびしいことになりましょう。。。
または親から、子供から、パートナーからなどと三親等以内の身内からも。。。
きびしいことになりましょう。。。



そのような人間関係の直下にいるときは、
無意識に相手からの攻撃から身を守ろうとする反応が肉体に生じます。
引っ掻き回される苦痛のしんどさから逃れようとするために、
腰、肩、首などが自己防衛パターンで固めて感受性を麻痺させようと歪みだします。
それは何例も似た状況で苦しんでいる多くのお客様を観させていただけば、
それぞれのお客様に共通しているゆがみパターンが現れて見えるものです。

この腰と首の縮み過ぎたままといった椎間板を削るような変位パターンを私が見るとき。
「人間関係で重々しいものを背負っている人なのだろうか?」と直感します。
後で親しくなって話を聞けば、やはりそうだったということが大半なのです。



非難に多大なエネルギーを割く友人、職場、親類縁者にいるときには、
施術だけで持続できる一定以上のゆがみの改善成果が出しづらい。
施術直後、一時的には改善してみえるが、
しばらくすると施術直前のときのゆがみへと自らが戻ろうとしだします。

カラダをゆがめて、自分の感情面での感度を鈍らせる麻痺をわざと起こさせている。
人間関係上の苦痛を感じるときの脳が感じる打撃個所は、
物理的にバットで頭や背中を殴られたのと同じ場所が反応している。
だから第二第三の非難にサンドバッグ状態とされる苦痛から避難逃避して安定して生きるために思い当たった方策として、
自らの身をゆがめて呼吸や血行等の代謝を落として、身を固めて痛みに耐えられる姿勢のまま暮らし始めます。

そうした場当たり的で自分の身をおとしめるような対策を、
人はとっさのときにやってしまいます。
そういった嵐が早々に過ぎ去ればいいが、
継続して巻き込まれれば自分の身をゆがめて身体感覚を劣化させることで、感情面の感覚ボリュームを下げる手が定着します。
100%の感受性であれば、100%の苦痛を感じますが、
50%に感受性を落とせば、50%の苦痛で済ませられます。
後者の耐えられる。。

だから自らカラダのゆがみを作り出して、
感受性を自己調整するというやり方に手を染めるときがでてきます。

そこにいったん逃げ込むと、独力ではなかなか復活できません。

なぜかというと、
襲い掛かる怖ろしい苦痛を低減させる技を獲得して身を守れるようにしたんですから、
それは自分にとってはあったほうが50%の苦痛が減った幸せを感じられるものです。
そうしたゆがみをなくせば、再度、100%のボリュームで苦痛が襲い掛かります。
そのことを無意識的に知っているため、ゆがみあるカラダが安息の安全地帯と感じてしまっている。
だから外的な圧をかけてゆがみをリセットしたとされても、
それはドンパチする戦場に襲い来る矢を避ける盾を奪われたに等しいことと感じるでしょう。

厄介ですが、
必死になって盾を探し、
ときには以前よりも強力な盾じゃないと不安に感じ始める引き金にさえなるケースもでてしまう。

すでにお客様が、パワハラや身内関係のトラブルを自覚的に把握できていればいいのですが、
そこの気づきが至っていないときには、施術での制御は屈筋群を緩めすぎずに伸筋群の再生を主にするというやり方で、
更なる感受性を落とさせることがないように気づかわなければなりません。






また、言いにくいことですが、
未成熟で自らが非難にばかりエネルギーを使い続ける傾向がある人にも、
特徴的なゆがみ方が観られるのです。

自分に建設的な改善をなすための力を発揮する方策があることに気づかぬまま、
相手の行為や行動にばかり責任を持って対処しろという気持ちでいるならば。
こちらが思ったように変わってくれない相手へのいら立ちや虚無感ばかりを感じることもあるかもしれません。
嫌がる他者を自分の思ったように操れると思うのが愚かなこと。
自分の常識は相手の非常識でしょうし、立場が変われば見方や感じ方が変わることに気づいていない。
それでは話がかみ合わないでしょう。

相手とのやりとりに歯がゆさや失望が生まれます。
自分の思い通りに動いてくれない苛立ちや失望があります。
そしていくら言っても自分に相手は変えられない事実が突きつけられ、
そんな無力な自分を魅力的な人と評価できないものです。
そういった焦りが、さらに他者を非難する行為がエスカレートへ。
建設的な思考が及ばない脳の使い方が、火に油を注ぐ感じに空回りし続けるでしょう。

結局は、みずからの建設的な想像力を発揮せずに、
相手に対しての依存心や依頼心が跳ね上がるばかり。

知的な行動を楽しみや快感と感じる人間の性質からは、
遠のくばかりでしょう。


そのような考え方で沼にはまると、
姿勢分析をするときの観察として。
地に足のついた立ち方ができず、ある人は骨盤が捻じれつつのめってしまう。
「胸椎がひねくれる」ような<特徴的なゆがみ>を内包していきます。
胸椎は、ゆがみが起きにくい構造上の特徴がある部位ですが、ここが施術家でなければわからないと思いますが、
心臓をざわつかせて落ち着きを減らすような負担を四六時中作り出していく自閉パターンを持ってひねくれんです。。。


24時間寝ても覚めてもやむことのない、他者非難に気を持っていかれる感情エネルギーのロスは、
実際に自身の身体エネルギーの枯渇へと舵を取ります。
これも、、見方がわかれば、判別できる可能性があります。




これらは。

人間が「思考」により、自分のカラダの変位を創造している一例といえるでしょう。
このときは「思考習慣」を変えられたときにのみ、カラダは素のままに戻るのです。
そうした胸郭パターンを書き換える「鍵」を、自分だけが握っていたわかり、
考え方に建設的な変化が生みだすようアクティブなコーチング思考などの習慣づけを徹底して行うと。

カラダの芯も書き直されていくように感じました。

これは私自身の感じたところでもあります。





最後に余談ですが。
Tverでテレビドラマの『ひねくれ女のボッチ飯』をたのしんでみてたんですが、
こんな感じのひねくれ方はかわいいんですけどね〜。
ドラマは最終話を迎え、しあわせ感があるエンディングで。
ひねくれ度が治って終わったような感じです。 ^-^ 

posted by スズキ at 16:41| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月08日

対人関係によるココロの状態が、カラダの変位(ゆがみ)にあらわれるときもあります

人間関係の問題について。
人が感じるストレスの多くが人間関係上の問題に起因するといわれています。

そんな人間関係上で感じたトラブルや問題から、
心身への負担が蓄積することもあるでしょう。

そのようなケースでは、
たとえば三角筋あたりのプロテクター筋と呼ばれる筋肉に、
特徴的な凝り方がみられるため、施術中に気づくこともあります。

肋骨が拡張したままで縮むことがないような方のときにも、
特殊なスポーツをしていないかぎり、
何らか過呼吸になるような人間関係上のつらさを感じたことがある場合があります。

過去の感情が影響して、現在の体型の変位を作っているパターンには、
他にもいくつかの特徴的な読みができるときがあるのです。


そうであれば心身一如として、ココロがカラダの負担原因ですから、
ココロが複雑で重い思いを背負い続けていたら、
カラダが複雑で重い変位を作り出すということ。


そうなると施術でカラダがメンテされても。

その改善成果は一過性のものでしかない。

ときには筋膜内部に過去のココロの傷(トラウマ)がレコードされていて、
その部位が解放されたときに過去の感情が癒されたということもあります。
ですがそれが必ずすべての人に起きるということはありえません。

ココロが大本でカラダに現れているならば。
大本のココロの変化に挑むことが早道です。



アドラー心理学のアドラーは次のことを述べています。

『 健全な人は、相手を変えようとせず自分が変わる。
  不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。 』




正直に言えば。
私も不健全な人の群れに埋没していると、自覚することがあります。

そのようなとき。
悪感情の想念がわき起こるたびに、
自身の呼吸が乱れて気がすり減り、
免疫が下がる危機的状況に陥ると。

そんな自身の危機的状況を感じて、
さらに相手が小憎らしく感じます。

そのような怒りや恐れや悲しみがなりやまないとき。
マイナス感情が自身の経脈を遮断して身体的なバランスも乱していく。

三角筋が硬化して肩が上がれば恐怖から自分の身を守ろうという反応で肺経という経絡の気の流れに異常がでてますし。
のような感じで、
相手に感じたマイナス感情ごとに、経絡中の気の流れが停滞する現象が起き、それは経筋の虚脱を呼んで姿勢異常が生じる。
そのようなところにココロの問題がカラダという見えるものへのバランスの乱れといった変位につながるのだろう。


そのような心身一如でココロの乱れがカラダの姿勢に現れているとわかると。
自身を全身姿見の鏡に映したとき、現状が手に取るようにわかることがある。



相手が悪い・足らない・問題があるのだと感じたとき。
相手を操作し、変わるよう仕向けねばと策を練るか、距離を置きます。
相手の存在感や影響力の幅にもよりますから、
一概に距離を置くという選択が悪いわけではないのです。
専門のカウンセラーも、要注意な人間関係で対抗が困難となれば、
たとえ近しい身内でも極力合わないようにしたほうがいいと勧めます。
人を悪気なくサンドバッグのように打ちのめしてしまい、
それを当然で正当だと信じ切っている人もいる場合です。



そこまでの深刻レベルではないとき。

相手はそのままでも一向にかまうことなく、
自分を変える挑戦を、あらゆる手で繰り出していくのです。

それが健全な人の、輝く成長の階段を進む姿なのでしょう。




アドラーが実際にそのようなカウンセリングをしているか、
参考になるような体験資料を探しています。
posted by スズキ at 11:02| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月29日

身体の筋膜の癒着が強かったお客様に共通していた、あることとは。。。

こんにちは。
ボディワイズの鈴木です。

今日はいい天気ですね。
ほっとします。

明日からは寒くなるそうだから、
できるなら今日中に洗濯をしておいたほうがよさそうですね。



さきほど、NHKで国会中継の参院代表質問を観ていて世耕弘成氏の質疑中。

うつのような精神的な疾患が3割ほど増え、
7月からは去年以上に自殺者が1000何人かは覚えてないですが(m__m)増えたそうです。

フランスではロックダウンだそうです。。。



ただ昨日、数か月ほどお見えになられたお客様は、
私が目が点になるほど体幹に中心軸がしっかりとできあがっていて、
「えっ?なぜかな???」と驚くことがありました。


お話を聞くと、中国武術の修練のひとつとして特別なトレーニングをかなりの頻度でなさっておられたそうです。
たいへんさは私たちと変わりないはずですが、
自分の内なる声を聞くことを忘れずにつづけた結果でしょう。
焦りや迷いを拭い、いつのときも自己成長の手をゆるめません。


それこそ「今の瞬間を生きる姿勢」と感じました。

いま私が読んでいるコーチングの本を精読すると、
自己との対話が進むと起きることがあります。
「To Be (あり方)」が見えて安定してくると
自然に
「To Do (行動のし方)」が導き出されてくる。
それが充実した自分らしい人生をもたらしてくれると期待できるといいます。


そのようなことを思い出しました。




その翌日の午前の施術で、
ご新規のお客様のお一人から質問をいただきました。
私と同業者の個人で整体院をなさっておられる先生です。


質問者:『いままでの身体が硬くて筋膜の癒着が進んで大変だった人たちの傾向は?』

私:  『それはもちろん、外傷性により甚大なダメージを背負うことになられた方もいます。
     ただそれは、たとえばの人数の話とさせていただきますが、
     10名の大変な筋膜の癒着が進んだ方々のうちの半数もおられません。
     3名ほどだと思います』

質問者:『それじゃ、カラダの使い方が問題で筋膜の癒着が進んだ人が他のほとんどだったんですね。
     なるほど。。。』

私:  『若いときや今現在もカラダに負担を強いる使い方で外反母趾や骨盤のずれを持った人もいます。
     それがもとで体の垂直性(アライメント)が崩れたために
     筋肉を使って身体を支えなければならなくなった人です。
     そのようなお客様は、カラダの使い方が問題だったといえそうです。

     ですが極端な話ですが、別の原因があるんです』


質問者:『 えっ?それはなんですか?』


私:  『「身内との人間関係から被った心的ダメージ」です。
     それ以上に異常な筋硬化をもたらすものはないと思われます。
     それは自身の両親や兄弟姉妹のときもありますし、
     義理の両親や兄弟姉妹のときもあります。』


私がそういうと、
不思議そうな顔をしておられました。


私:  『私の施術させていただいた多くのお客様と接しお話をお伺いしていくとき、
     筋膜が硬くなっていたベスト10と感じたお客様のなかの8名がそうでした。
     
     その8名の中には、いつも楽しく話をさせていただいて、
     ご家族のことを話題にすることもなかったのですが。
     通常ではありえない筋膜の硬さが次の施術をお受けいただくときに戻る方がいまして。

     それはもちろん、当時の私の施術の力が足らなかったかもしれませんが、
     その他のお客様方が着々と改善へ向いているのだが一進一退を繰り返すか、
     改善はみられても気が晴れるまでには絶対にいかないんです』

質問者:『もしかして、、、
     そんなときは、もしかすると身内との人間関係に苦しめられていやしないかと、
     思い切って確認するんですか? 0.0;』

私:  『残念ながら、私がそこを尋ねてわかったとしても、
     そのお客様の感じている苦しみは癒えることはないのです。
     だから、お客様が話してくれるのを、ひたすら待ちます。
     すると不思議と身体の芯にかかわるコリがほどけたとき、
     お客様が急にそのような話をし始めてくれるのです』

質問者:『なぜだろうか。不思議なことがあるものですね』

私:  『特に心臓周辺が深いレベルまで緩み始めるとき、
     そういう話を聞かせていただけることがありますから。
     カラダの開放が何らかの心的ストレスを改善させる方向へ向けての契機になるのでしょうか。

     ですが私に話していただいたとしても、お客様と身内との人間関係が変わることはないので。
     それで奇跡がおこるような筋肉の柔らかさが戻ることはないんです』


質問者:『じゃあ、なぜ、お客様が身内とのトラブルで筋肉が硬化したとわかるんですか?』


私:  『それは、いいところを突いたね。
     そのお客様方が身内とのトラブルが消えた後に施術をすると、
     それが私にはわかるから、、、なんです。

     私が、劇的な変化が起きて筋肉が普通の人レベルの硬さに落ち着いたお客様を観たためです。
     普通の人レベルよりは、まだ、まだ、、、いささか硬さがありますが、
     以前の硬さが鉄骨で異常な変位や変形を表していたものが、いきなりその1/3以下の硬さに。
     激変緩和といえるような変化をみたとき、
     お客様に「なにか、あったんでしょうか?」と尋ねると、
     その身内とのトラブル原因が消滅したり、かなり距離をとれるようになっていたといいます。

     そういう人が、何名も、何名もなので、その多数の人を観た経験上、
     データ蓄積からきた直感が働くようになるんですね。』


お客様のお身内の人間関係について、私がなにかできるようなこともありません。。。
それですむほど簡単なものであったならば、
これほどまでの筋肉の重く硬く冷たい鎧を着こんで身を守ったりはしないのです。



肉体面では物理的な筋硬化は、
多年にかけて貼り付け続けた筋組織が変質した状態を施術でリリースすれば、
なんらかの改善の兆候はみられます。
私には、それも一つや二つではないものを把握しているのです。
肉体は物理的な物質で、それらの組織を元返しするよう外的刺激により図ったのです。
その刺激は少なからず入っていきます。


ですが体調の基盤は徐々に改善するものの、
悩みの元が収まらないままこころの深いところで気が停滞し続けている力が勝れば、
致し方がない結果が現れてきます。


専門的なカウンセラー技術を学んだことはない私のような施術者には、
お客様からの話を傾聴させていただくことまでしかできません。

ただ願わくは、お客様に望ましいときがきて、
いまのような、肉体にのしかかる苦しみから抜け出てほっとしてほしいです。



そうなったとき。

カラダがゆるゆるとなってきて、
「さぁ!今までの硬い体ではなくなった夢の状態ですよ。
 こないだまであれほど硬かったのが、
 起立筋が、もう、こんなにやわらかいですよ!!
 これはもう、戻りませんからね!」

といわせていただけるでしょう。


私も、このような話を20年もお伺いしていますと、
順風満帆な身内との関係ばかりではなく、
こころを砕かれることも、またはこころを砕く側になって苦しんでしまうことも、
様々なことがどなたにもあるのだろうかと思えています。

特別な「身内」という縁の深さから影響も大きくなって、
直面しなければならないことも多くなり学びも深まります。

ただ、私自身の勝手な考えでは、、、
丸腰で戦場にでていくのは賢明ではありません。
そこから自己成長を達成する前に、
心身ともに穴だらけにされてしまう。


それがどれほどまでつらいことなのか。
間接的にそのようなお客様の施術をとおして感じてきました。




ただカウンセリングをなさっておられる非常に優れた先生の名言に、
「他者へのカウンセリングは、私にはできるけど。身内へのそれは、難しいものよ・・・。ムリ!」
^-^;とのこと。



縁が切れればそれまでという「他人」には、人は外面がいいのです。
それは認知症発症後の方でも、そうなる傾向があるそうで、
それが「身内」には、内弁慶で当たってこられて大変だといいます。



身内という近しいものであればこそ、
関係性の構築」が難しいこともあるでしょう。

ただそのときの関係性も一方通行の関係性で愛という接点がなければ、
逃げるようにしなさいというのが、いまの主流のカウンセリング的アドバイスだそうです。

神様は、身内との「関係性の構築」という難問をあたえなければ、
本能として私たちの奥に眠り呆けている知恵と勇気と愛を発揮しないと思っておられるのか。
または、難問も解決できる解答を用意して、私たちの意識を書き変えるようやさしく導いてくれているのか。





あと付帯して述べるならば。。。
このような身内との関係に悩まれているときには。
心理的な方面からの、怒りの感情から叫びたくなるようなとき。
神経が過剰に刺激を受け、アキレス腱などの腱と呼ばれる部位が鉄のように硬くなっています。
この腱の硬さから感じられるのが、私が上記で申した、鋼鉄の鎧を作って着込む大本なんです。
そして精神的な明晰さが減じられ、肝臓部分が硬くなるか過剰な肥大があり血をためてろ過したり、
全身への適切な栄養の配分がしづらくなっています。
目への不安を感じることもあるでしょう。



この付帯してというところを質問者に述べると、
「あっ、それは、鈴木さん。中医学からだね」とのこと。
さすがは鍼灸の先生をなさっておられる方です。
その、通りです ^-^
posted by スズキ at 15:44| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月14日

『病は気から』 メンタルがカラダの手綱を握っている!

いま、私が図書館から借りてきて読んでいる本。


「病は気から」を科学する

「病は気から」を別の言葉で表現すると、
「カラダの疾患は、こころや気持ち(思い込み)によるプラシーボから」という側面に迫った力作。


そして、今日。

本日の施術のお客様が、カラダがやわらかかった。。。

私がカラダの硬さでは多くのお客様を観てきたが、
こちらのお客様は東日本では一番の硬さであった。

そのため東の横綱という地位を占めていました。


そのお客様のエピソードとして、
私が施術を休業中に整骨院へマッサージを受けに行ったとき、
何名か施術者がおられるところで新人さんがその日は担当していただけたそうです。
新人施術師さん「こんにちは。お客様のお身体、硬そうですね。指が折れてもがんばります!」的な元気いっぱいの言葉がけ。
ただその言葉を小耳にはさんだセンパイ施術師。
以前にそのお客様の施術を担当したのでしょう。
「指が突き指程度じゃ済まないから、安易な発言はするんじゃないぞ。こらっ!!」ということ。

真摯にお客様に向かい合う施術者だからこそ、文字通り、普通の人とは一線を画すため、
押してもひいても何をしてもがちがちで緩んでくれないさまに、恐怖を感じただろう。
突き指してしまうほどに指が腫れ上がるほどがんばったが、
自分の力量では解けないという申し訳なさ、そして一歩引いて感じる敗北感。

この表現は誇張ではなく、私がこちらのお客様のお体を初めて施術で接しさせていただいたときは、
突き指程度ではすまない硬さであった。



そのお客様が、本日、お体が柔らかかった。



そのことに私も素直に現状把握をした通りの現象が起きているとは信じられなくて。
どこかに表面に現れていない何らかの課題が潜んでいるのではないか??
カラダの隅々をくまなく探索し続けました。


いつもよりも格段に筋肉がやわらかい。
ミラクルです。

どこかの主たる問題個所が一点深々と入るとき、
カラダは微熱を帯びて柔らかさを増すときがあります。
そのときは気を付けなければならないシビアなときです。
そうであればいけないので、隅から隅までチェックにチェック。

ただひとつ明るい面を観れて、ほっとしました。
起立筋の1側線(脊椎の棘突起のすぐそばに位置する縦ライン)は鋼鉄のような硬さを示す部位は散見される。
ただ2側線、3側線は、長時間、ホットストーンを敷石を長時間当てておいたからという点もあるのだが、、、
やわらかさが現れていた。

「あっ、ほんとうに平素の生活レベルで筋弛緩してるのだな。それはなぜ起きたのだろう?」
そんなところへの追求心に変わっていった。


それからお客様が語っていただけた言葉に、
その理由の一端を感じ取ることができました。


以前、情報処理能力にたけていたため、
山のような仕事を詰め込んでも瞬時にさばけていた。
やりたい仕事があれば、睡眠時間を削ってもがんばっていた。

だが最近は目に問題がでてしまって、
情報が目に飛び込んできてくれなくない。
仕事が進みづらくなってからは、
しっかり睡眠を日々とるように心がけ、
カラダを休めることを大事に考えるよう変わったといいます。
それはいわば、
こころがいつも過緊張状態でアドレナリン投与し続けていたところが、
目が見づらいから休みをとる自分をゆるそうという気持ちの変化を産んだ。

本日のお客様の脈状を診れば、決して元気な状態だといえなず、代謝は滞って疲れは蓄積している。
カラダのゆがみのパターンとして、左右の脚長差が右が長くなるという形で胸椎の曲がりがでていたため免疫力も落ちている。
他にも8つほどの課題とすべきところは見つけたが、
それは施術で対応できる部分で言葉に出して指摘をせずに治しました。
多数のネック部分を告げられると、人の心はへこみだすのが常です。
施術家相手ならば冷静に自己客観視できるのでへこみも少ないと思いますが、
一般的にはそうではありません。
なのでメインどころの3点〜5点以内に課題部分の指摘は制限してちょうど。
なかには課題と言えるようなところの指摘を受けることでへこみ過ぎる傾向があれば、
つたえる言葉をさらにオブラートに包んでおかなければ、
後々に告げられた客観的事実も改善課題として受け取れずにネガティブな印象として定着されてしまう。
こちらのお客様には、率直に状態をお伝えできる方です。


だがそれでも以前よりは、だいぶ体の状態がいい。


カラダを酷使してきた手綱を緩めて、
こころを本当の自分の身体に負担を強いないマイペースを選択することを許したとき。
気持ちの緊張がするするとほどけてゆき、カラダがそれにあわせて緩みだしたのかもしれません。


そんなところからも、
「病は気から」という、カラダには強烈なストレスをかけすぎていたから整骨院の先輩が真顔で新人の軽口を制したほどの硬さになれたのです。
そこには気持ちが急いてがんばれよ、もっとやっていかなきゃだめだよと無茶ぶりをし続けた結果から尋常じゃない体を作り出してきた。
つまり体に対して10の負荷がちょうど休めが回復できるものだったのだが、
それが20も30もの負荷をかける前のめりな自分を意図的にしてきたという本人。

それがこのほど気持ちが変わって、
カラダを休み休み使って無茶はしなくていいんだと、
ゆるキャラをよしとするよう超えられた、今。
つまり体に対して10の負荷がちょうど休めが回復できるものだったので、
10か12ほど程度の負荷でセーブをするような生き方に変えた。

自分の身体に耳を傾けやすくなってきて、
そこからの対話から適量の負荷にとどめることができるようになった。


とにかく、急いた気持ちが前のめりに走り続けてカラダに負担を蓄積し続け、
筋硬直が凄まじくなって東の横綱といわれるほどとなった。
体質が筋肉を固めやすかったというわけではなかった。
メンタルがカラダの手綱を握っての影響から、カラダの筋緊張を作り出してきたということが、
お客様も、そして私も理解することができました。


posted by スズキ at 05:27| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月15日

「病は治るものなり」とは?




「 病は治るものなり

  何かをしなくとも自ずから治るものなり

  治らざるは、自分が病んでいるからなり

  自分が病まねば、病は自ら去るなり

  それが病むということなり 」



この文章は、
野口整体の創始者である野口晴哉(はるちか)先生のことばです。





なぞかけのような深さがあります。

ここで述べられている「自分」とは、
なにを指しているのでしょうか?

冒頭に、そのような不思議な印象を受けます。

自分の身体は生をまっとうするための遺伝プログラムにより、
つねづねからだの状態をよくしていこうとするようにつくられています。

だから創造主が与えてくれた病を治す力にお任せすることにより、
一時は得た病も、やがて身体から出て行くしかないものなのです。


ならば自らの肉体は治りたがっているわけですから、
そこを邪魔しないなら、うまくいくはずなわけです。


そういうものだから、もしいまだに病が治らないというならば、
それは自分自身に病むに病まれぬ状態であるということである。

「自分が病む」から、病は内外から訪れてくるだけだとすれば。

「自分が病んでいる」というのは、いったい自分のなにが、どう病んでいるのだろうか?

ここで自分の身体が病んでいるとなれば、
当たり前のことをことさらにいわれても、
あまりひびくようなところもないものです。


それは「己が魂」のことを言い含めた意味あいなのでしょうか?
または「自身の思考が自然体から遠ざかり息が詰まるような」のでしょうか?
うまく言いえている言葉がでてきません。。。 ^-^;


人は生活を送る上で「ハレ」と「ケ」を、
行きつ戻りつしながら暮らし学び成長するものです。
その際の「ケ」のときには「自分が病む」ようなこともあるのでしょう。
それは、相当な菩薩行がなされたかたでない限り、普通のことでしょう。


そんな「自分が病んでいる」状態を選択せざるを得ないときもあるでしょうが、
わずかずつでも「自分が病まないでいられる」変化を起こしたいものですよね。




私ならば。

「病んだ心」へとおちいれば、
そこではできるだけ長居をせず、
前向きにコーチングマインドで進んでいきたいですね。


心を頑なにせず、
気分を落ち込ませずぎもせず。
おおらかに生き生きと、
日々を有意義にいられるなら。

こころの緊張を解きほぐして、
気持ちの執着やわだかまりを取り除いていくなら。

そこに「自分の病み(闇=やみ)」を照らす光が配られるでしょう。

そのように心がけていれば、いま、目に見える、または内側に隠れ住む「病」も去ってくれるでしょうか。
posted by スズキ at 02:00| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月10日

成果が出るまでの苦痛に勝つサポート

成果が出るまでの苦痛に負けるか、勝つか。

その差は大きいでしょう。

たとえば。
経営者未経験の者が仕事を軌道に乗せるまでには、
さまざまな対処すべき物事が続々と押し寄せます。

その波に飲まれてさらわれておぼれて我を忘れて冷静さを欠いてしまえば、
成果が出る前に負けが決まります。

成果が出るまでの過程には、
経営者としての技術の向上とセンスを磨く必要があります。
そこには量稽古として、多くの稽古をし終えたときにこそ、
技術もセンスも磨かれるもの。
その認識の末に、ようやく成果がでてくるものです。

だからその量稽古をひたすらに成すときには本番以上に試行錯誤を繰り返して、
必死に取り組まなければなりません。
稽古は失敗から修正をし、そこで技を磨くものです。

そしてそれは取り組むべき課題が、容易に対処できるレベルのものでなければ、
成果が出るまでには期間が必要で、あせりや苦痛を感じるのが普通のときです。


冷静に事実認識ができるかどうか。

それも大切ですが、
実際の話、多くのこのようなケースでは、
一人きりになって進む場合には、
9割以上が成果が出る前の苦痛に耐えられないような気がいたします。

そのようなときの乗り越え方として最も有力なものとして、
次のような環境づくりがあると思います。

「熱意を保ち続けている友を持ち、
 指導をしてもらえるコーチやメンターを持つようなとき、
 ようやく、そのような大仕事がかなう勇気がもてるようです。」

 人は、不安になったとき、または大きな仕事を動かさなければならないとき。
 誰もが自分ひとりで決める勇気を持ちにくいという傾向があります。
 そこで他者や第三者からの承認をもらえたときに、
 「やっていこうじゃないか!」と決意行動しやすくなるものなのです。

 それこそコーチングの世界。
 すぐれたコーチにお金を払って雇う
 プロスポーツ選手やトップビジネスマンなどが印象的な話をするものだ。
 本人的に十分な技術的能力や決断力があるにもかかわらず
 「成果を出せたのは自分ひとりだけの力ではなかった」
 ということで、
 「やっぱりコーチがいてくれたのは、この成功に大きなものだった」
 という感想を述べる。
 




成果が出るまでは苦痛の連続。

そういうものだという理解や腹積もりがあるものは、
乗り越えることができるものでしょう。

ただ必要なことといえば、
自覚的にどのような現状かを把握できていなければ、
行動にいたる仕掛けが適した手が打つことも工夫もできません。
自覚的な現状の把握」ができるまで客観視できるようになる。

経営をするにも多くがそこにまで至らないのだろうと思います。






そしてこのことは、
施術をお受けいただくお客様にも同様なことが当てはまるときもあると思います。

施術を受けるにも、
成果が出るまでの苦痛を感じることもあるでしょう。

むろん、容易にケアできる程度のものであるならば、
それほどの心配はいりません。

ですが課題として大きなものであればあるほど、
自覚的な現状の把握」ができるまことは稀です。
自己を客観視できるようになるにも、
複雑な多層構造的に入り組んだ問題を内在しているとすると、
技術や視野の広い施術をするものでも内容の把握ははっきり言って容易ではありません。

多くの症状や甚大な課題をお持ちのお客様のお体の状態を把握する際には、
仮説を立ててて、その仮説に基づいて施術を行い検証していくと、
また別の課題が量を増して出てくるということがほとんどでしょう。
そこを自分自身で対処しようとすると、
一喜一憂が甚だしく、
気分がいいときはいいが、
落ち込むときは投げ出したくなるほど。
そしてなにか違うな・・・ということで、
正解に至るほどの現状の把握ができないうちに辞めてしまうのが通常です。

それでは成果が出るまでの苦痛に負けてしまっております。

そうなると、残念ながら自身の状態を腑に落ちる状態にまで理解できずに、
不明瞭な認識のままとなってしまいます。
すると自身の状態を精密に把握していたらふさわしいかどうか判断して遠回りをしなくてもすむ対策や対応を工夫することができません。

このときの状態が「迷宮にさまよう」と評されるときです。

それは精神的にも焦げ付くようないたたまれなさや切なさから、
課題の解決や取り組みをあきらめるしかないという判断にいたることにもなりかねません。

そのようなときこそ、
先ほど経営者が成果が出るまでの苦痛の連続を乗り越えるために

「熱意を保ち続けている友を持ち、
 指導をしてもらえるコーチやメンターを持つようなとき、
 ようやく、そのような大仕事がかなう勇気がもてるようです。」

というのが効いてくるものだと思います。

施術者は、ときとしてお客様の熱意を保ち続けるための友として、
そしてときにはコーチとしてお客様のお話を傾聴させていただくものです。
一人きりでの頭で状況や事態を整理していくよりも、
人に話して聞かせることにより自己整理がしやすくなるでしょう。

実際には施術者もお客様のお体上の現状をお伺いすることで、
近況の特段の変化や怪我や問題などを把握することもできます。
そこの伝達をお願いすることも大切ではありますが、
それと同時にお客様自身が自己を客観視しながら他者に状況を解説するという経験は、
日頃の生活であるようでいてあまりないものです。

ただ自分の理解できているところや思考過程を、
言葉に出して相手に聞かせると同時に自分も聞いています。
自分の声を自分の耳で聞いたときに、
未整理な脳内で移ろいつづける言葉未満の印象から、
言葉という響きや実態を持ったものとして表されたときに、
初めて自分がこのように考えているんだと把握できるもの。

それは確か「オートクライン」と呼ばれるものだったと思います。

自分の出した言葉を自分が耳にして理解ができるという状態です。


お客様は自覚的な自身の現状を施術者に丁寧に伝えることで、
自己を客観的に把握できるような経験をつみ、
工夫して対処対応が可能なステップへと進むことがやりやすくなります。

それは身体を改善させていくという目標達成のためには重要なことであり、
そこで施術者はあまり骨惜しみをしてはならないと思っています。


そしてお客様が、
まったく現状は足踏みです、
とか
まったく成果が出ていない、
という印象があったとしても話を冷静に現状を時系列的に並べていけば、
現状把握に公正さを欠いているときもあります。

そのようなときに、
施術者が手厳しく上から目線で論じれば、
たいていは角が立ちます。

ですがお客さま自身に、
現状のみではなく過去からの流れを俯瞰して語ってもらえれば、
今が自分がゴールへ向かっているかどうか、
そしてどこまで進んでいるのかという把握を自らがしてもらえるわけです。

ただなかなかそういったことを述べる気持ちにさえなれないときもあります。
それにこちらがそこのお話をお伺いするにも時間的に厳しいときには、
私のほうから「うん、うん、たしかにそうですね」と
お客様がおっしゃられる公正な客観から見た私の感想を述べて積み上げます。


まったくの成果がない状態で、
長い間、同じ治療院等に通い続ける人はいません。

なので、
「それでは、もし、この施術院に縁がなくて、当時の状態を引きずっていたら、
 おそらく当時の状態は、さらに深刻な問題へと悪化していたと考えられます。

 そこをゼロ地点として考えて、
 現状がどこまで進んだのかを評価するようにしてみてはいかがですか?」

というと、
「そういえば、、、そんなもっとも避けたい事態も起き得たんだと思い出しました。
 かなり、ぞっとしますね・・・」
そのような感想を述べられた方は、おられます。
一人、二人ではありません。。。


そしてこの時点で、
お客様自身がしっかりスタートからゴールに向かって自分がどれだけ進んできたのかを把握しだし、
確かに前進しているからいずれは思い描いたゴールにつくときがくる可能性も高い。
だったらやっていこうじゃないかと考えて、
今日のこのときを新たなゴールへのスタートとし、
また走り出す。




さまざまな理由から気分が落ち込んでいるときに、
成果が出ていても出ていないと思えてしまっているときがあって。
それはお客様の主観的視野からはそういうしかないという気分なのですが、
それがかえって気分のどん底がどつぼにはまるようなら
<<現状把握をしてゴールを見据えてそこへたどり着く最適ツールはなにか?>>
といった成功に必要な心得を手放しています。
そうなると無理無駄むらが多くなり、
かえって動いて失敗した状態になることもでてきます。

そこをそのままにしておくと、多くの場合は成果が出るまでの苦痛が長引きます。

そこから、どのように抜け出すお手伝いができるものか。


それは同時に、成果が出るまでの苦痛に、どのように耐えるようお客様の身になって考えられるか。
その課題は、シビアです。
そして言葉という道具の鋭利さと怖さを感じざるを得ません。



「成果が即効出せないのはダメじゃないか。そんなものは耐えさせちゃいかんのだ!」
という夢物語を語るのは臨床家の本分ではありません。

そこは、簡単な対処で済ませられるお客様に対してだけ述べられる言葉であり、
お客様ごとに使い分けが必要になってくるからです。

私がお客様に対し施術上でできることは、
「他院では、少しずつはよくなっていったが、
ボディワイズでは、確かにそれらよりも大きな前進が感じられた」
というようなところへ惜しみない努力をなしていくこと。

そして成果が出てゴールに着いたと思っていただける日まで、
根気強く、言葉がけをすることでしょう。
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2018年08月11日

否定的な思考は、体を歪める元にもなる、、、と、私も思います。


私たちがしあわせになれば、
世界もきっと癒されるのだ。

未来を思い描く思考を楽しみながら
イメージトレーニングをすることで。
ほんものの未来も楽しくなっていく。

そんな気持ちで五感をフルに使って臨場感たっぷりに、
自分を愛し、
他者を信頼し、
そして他者に貢献して生きていく。


そうやって「自分」というこの世に唯一無二のキャラクターイメージを、
創造していく。


それは、一昨年前に通ったアドラー心理学をベースにしたコーチングスクールの思想です。


メンタル的にも、
フィジカル的にも、
それは「自分の身は、自分で守る」力となるのかもしれません。



もしも否定的な考えに気持ちや思考が占められていたならば。

それは自分の体をがんじがらめにしてしまうかもしれません。



とあるお客様に、
お体のゆがみがある理由は?と問うた時、
「幼いころから否定的な考えを押し付けられたからかも・・・」という回答。

・・・。

私的には、
「やっぱり、デスクワークがきつくって、仕事が終わる午後には足のほうがむくんでパンパンなのよね〜」
といった最近の出来事上の回答が返ってくるのかと想像していたところでしたが、
確かに、、、そのようなことってあるだろうなと、
私も、まったくその方に同意する感じでした。


私も否定的な考え方、自信のなさ、そこらの極端な緊張など、、、
そんな状態だったから体だって苦しんでしまうし、
目つきだって鋭くなることだってあっただろうか。

私が自身の体が弱っていたときに、
否定的な考え方に染められていたのだろう。
そこから体のゆがみや萎縮が起きていたとも思う。

だから、お客様の前では、
なんとなくそこに笑顔で「そうなんですね!否定的な考え方って怖いですね」とかいってもいられずに、
つい、つい、「なるほど、なるほど」という言葉を置いてスルーしてしまったような弱さがありました。


私自身、コーチングスクールをいまだに出席単位がそろわずに終了できていない身ですが、
ずっとそのコーチングスクールでは、後に至る最新クラスの受講の際の音声データが提供されており、
そちらを聞き続けています。

ずっとコーチングスクールの講師に講義を受けているつもりで聴いてます。

それにより、否定的な考えも肯定的な考えも、
全体性の捉え方からすれば着色されたレンズの色眼鏡をかけてみたに過ぎない。
そのような自身の見方の盲点探しに精を出せば、
何も自分を追い詰めもせず傷つかず、
そして何も浮かれすぎもせず。 ^-^;


そのような気分になったときから、
体のほうも調子がいい。

少しだけメンタル面のタフさから、
救われた気持ちにもなりました。

そんな経験をしているから、
そのお客様の言葉は私には深く刺さりました。






それでは、
否定的な考えについて、、、ちょっと考察してみましょう。

●----------------------------------------------------●

たとえば、子供を注意するとき。
プラス思考のいい感じの回答ならば。
「おもちゃを整理整頓して置いてくれると、ほんとうにきれいね〜」
というものもあろうし、

「おもちゃを定位置にそろえておきなさい」
という指示命令系もあるし。

マイナス思考ならば、
「おもちゃをそろえて置かなきゃダメじゃないか」

もっとひどいのが人格否定をするならば、
「おもちゃをなんで整理して置いておけないの?まったくダメな子」

●----------------------------------------------------●


どうも、、、どうも。
子供のときに、幾度も人格否定をされる言葉をかけられると、
条件反射的に自分に対して人格否定をするメッセージが頭によぎるようになるといいます。

この人格否定モードには、
自分の行動に対しての勇気がくじかれた状態になるともいわれる。

人格を否定する声が自分に対して他者から・自分から向けられたとき、
もっとも体に緊張が支配して抗重力筋などの体を支える筋肉が弱化するのです。
力を適正に出そうとしても虚脱してしまうんですね。


簡単な実験として、
自分の信頼される者から自分の不出来なところをだめなやつだといわれたとき、
たとえば、利き手を前にならえをして力を入れていた設定にしていたつもりが、
どうしても力が抜けてしまう。
それが信頼される者に、愛情たっぷりにきれいにしてくれるとうれしいといわれるならば、
別段、前ならえをした腕の力が虚脱することもありません。
(これは三角筋をインジケーター筋にした、筋反射テストですね)
おそらく実際にやってみていただくと、
五十肩等の腕などに問題がある人でもない限り、
上記のまんまの結果が出ると思います。

そうなってしまうと。。。
もし抗重力筋が虚脱するとどうなるでしょうか?

そうなると意識の力で操作可能な屈筋群を固めます。
そうやって起立筋のような抗重力筋がもろく体の支えを失った部分を補います。

それが、多くの場合、呼吸筋としての胸の前や腹部前等にしこりを多くつけるのを筆頭に、
その他の屈筋にも、たちの悪いしこりをはびこらせてしまうんですね。

自己否定や否定的な思考からおきる怖い抗重力筋の虚脱がおきたとき、
体ってゆがみだしもするんです。

こころの否定的な傾向性が
体のゆがみを作りもしますし、
ゆがみを緩めたり消しもする。




こころはからだの心強い味方にしたいものですね。


私もまだまだ未熟なものですから、
もっと、メンタル面の強化をがんばらなければ。。。
posted by スズキ at 19:04| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

人は、体験からのみ学び成長する生き物なのです



とある「腰痛を患っている」お客様がいたとします。

お客様から
「腰部のココらへんが痛くて、痛くて、、、。どうにかしてください」
と状況をそのまま伝えられたとします。

たとえばそれがドラッグストアで訴えたのならば、
「いつぐらいからですか?痛みの質は?ならば、この湿布がお勧め!」
というようなアドバイスを頂くかもしれませんね。

その湿布の御蔭で、腰痛の痛みが軽減するかもしれない。
それは困っているときには、その即効が救いの神のよう。

たとえばそれが施術院で訴えたのならば、
「(背中の状態をチェックして)腰椎の何番目がずれているから矯正しますね」
というような施術になるかもしれません。

それも即効があって助かる感じもします。


ですが、たとえばコーチング的に体を観ることにこだわるならば、
少し様子が変わってくるかもしれません。
その場で現状感じているような痛みが改善したとしても、
確かどうような痛みを以前に訴えておられたと感じたら、
時間をかけて事情聴取をはじめていくのです。
施術を行うものは、
24時間お客様につきっきりで観察しているわけではありません。
だから事の詳細を知るのはお客様だけですから、教えてもらうのです。
実際はお客様に今回の痛みが出た際のきっかけと、
以前にも起きた腰痛の出た際のきっかけが同様であるか。

自身の言葉で状況をリアルに思い出しつつ話していただくことで、
「あっ、そういえば、その両者には共通項があった感じがするな・・・」
と過去を振り返っていただこうとしているのです。

たとえば赤ちゃんを片手で抱っこをするときに右手側しか腕力がなくて、
それでついつい右手を使ってばかりいる。

そこまでお伺いして、私があたかも赤ちゃんを片手で抱っこをしてみて、
と想像して動作をして、体にかかる負担を感じてみる。。。
確実に腰部があらぬ方向へとねじ切られてしまう負担がかかっていた。

その負担量は、男の子三人を育て上げたので、
相当長く継続的に右手で抱っこをしていたし、
それも体を少しお腹を出すように腰椎を前に反らして腰に乗せる感じで。

するとそれが骨盤の右側の前傾の強さが強まり、
同時に腰部の腎臓の裏手あたりの上部腰椎がねじりがきつく入ります。
そのときに
「なんだか確かに、、、子どもたちを育てていたときに、
今の腰部の使い方の癖がついてしまったみたい。。。
私も、そんな気がしてきました。。。」

すかさず施術者側がいうには、
「なるほど、なるほど。
歩くときの腰痛と、過去の子育て中で積み重ねた腰の捻り癖が、
そのような共通するきっかけがあったんですね」

お客様の心中では、
過去の出来事が今の今まで尾を引いている現状に驚き、
「もう、その当時の子育ては済んでいるのに!!!しつこいなぁ」
と感じてもらえるでしょう。

「そういう、過去に強烈に学習した姿勢パターンは強烈に理想姿勢から自分を引き離します。
これは本気度をあげて、動きのパターンを自身で観察し切ることが必須だと思います。
その上で、次のような解説にヒントを得ていただいて自身で動きの工夫をしてみませんか?」

そう伝えて、
すでに相当立ち姿が綺麗に整い始めて腰椎の前弯以外は気にならない状態になってきたが、
ぜひとも入浴前等で自身の腰椎の前弯がどれほどあるものなのかをチェックするようにと。
今日が3センチほど理想姿勢から腰椎全体が前弯していたとすれば、
それを2センチ9ミリにするには、どのような姿勢に気を配ればいいのか?

たとえば、
足裏に落とす重心を変化させたり、
内転筋を活かし、大腿直筋の緊張を軽減させたり、
頭の置かれるポジションを額に手を当てて適切なバランスへと導いたり、
その他いろいろ。

自身で試行錯誤して体をマクロで見たりミクロで観たりして視点を変えていき、
もしこんな意識で立ってみたらどうだろう?と思いついたやり方を試してみれば。
それが、どんぴしゃり自身の体調改善につながったりすれば。。。

そしてたまたま、
そのお客様が立位姿勢で肩側の膝を気づかないうちに曲げて支える癖があることを見つけ、
そこを修正をかけていた。
するといつもだったら身体が捻りが入ってしまうため、
腰痛からぎっくり腰に発展しそうなまでに負担がかけられていると、
もう、対抗しようがなかったのだが。。。
腰部にねじれが入ると、脳がそのねじれ具合を計算し切るだけの計算式はほぼほぼ立てられず、
大腰筋の肩側を極度に硬化させてしまい、
その硬化した大腰筋が周囲の組織に癒着してなんかの拍子にその癒着が剥がれると非常に驚く。
それが激痛なので、そのきっかけで急激に大腰筋を硬化短縮させて動けないようにさせていく。
それがぎっくり腰になる際のひとつのお決まりのパターンです。

それが自分でも「膝裏を伸ばそうかな・・・」と思えたことで、
それを実践したら調子が良くなっていたということに気づいた。

そうなればしめたものです、、、。^-^

「すごいじゃないですか。あなたは、自分の工夫で腰痛の重症度を軽減させたんですね!
自分で工夫すれば、そんなことができるんですね!!!」

と意識に残るように赤丸でグリグリグリっと強調するんです。

そこではじめて、
自分の観察眼も大したもんだし、
その力が自分を助けることがあるんだな。
それだったら、もっと自身で身体操作を変えれば更に良くなれるんじゃないか。。。

そんな気持ちが湧いてきたときに、
現在体験している腰痛という症状により、
自分の体への興味関心を直接持って眺めてみるきっかけを得て、
そして観察から得た情報や過去に得た知見から、
どのようにすれば腰痛状態になる姿勢から、
腰痛にはなれない姿勢に改善できるのか。
探り出そうと脳が動き出すのです。
自問自答という内省から気づきを増して、
経験値を増やそうとしてくれるものです。


人は、そうやって腰痛という体験を通して学び成長できます。
そして何が大切なモノかを発見していくのです。

いつもはそこにいて勝手に機能してくれているという自分の体。
自分は車の助手席で運ばれるだけの心持ちから、
自分でハンドルを握り運転し始めたのです。

実際問題として、
自分の身は自分で守るしかない。

他人が守ってくれると信じるのは勝手ですが、
期待したほど機能しないことだってあります。
そんな不安定な身の上でいいんでしょうか?

自分でハンドルを握って運転する勇気があれば、
少しくらい周囲にぶつかってもめげてはいられません。
やがて成長の種が、そこで芽吹き大樹に育てるのです。
私は、そうなっていただければ、うれしいですね〜。


私が体の使い方を伝えてみて、
なにがしかの変化を期待するとすれば、
自分の体を知り尽くしていく好奇心は自分の身を助け、
同時に自身の気づきを増やす変化成長の繰り返しという体験学習には深い意味がある。
それは人生の教訓めいたものさえ感じさせることもあるのです。

みなさまも、少しだけコーチング的な視点で今の自身の問題を捉え直してみませんか? ^-^

posted by スズキ at 09:00| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

身体にかかる負荷等の自己観察ができていれば、痛みや不調は目減りするものです

物を見たとき、
目のピント調節機能が自動で働き、すっと焦点が合うものですが。

同業者の知り合いの方が食事中、
「なんだか視点が合わせられない・・・」といっておられました。。。

日頃は、眼球に対して事さらに気にも留めません。
それが一転、不調になるとつらいものですよね〜。

目のつかれが抜けず、涙を分泌して水分がうまく供給できない。
乾燥して眼球を動かそうとすると突っかかる感じでぎこちない。
自分が見たい物があってもピントがあわなくてぼやけて見えて、
二重や三重のように多重に像が映しだされてしまうこともある。

肩の凝りの張りも、つらくなりイライラするようなつらさです。

そうなれば必死に目薬を指しても、一時しのぎでしかない。





私も、この状態にちょっと前、陥っていました。 ^-^

背部の筋をいきなり使いすぎた結果、
「頭部の凝り」がひどくなってきて、
上記と同様な視覚問題がでていたのです。

基本的な動作ができていなかったんだと痛感し、
その問題が改善できるならば視覚の一時的な問題はなんのその。 

目がしょぼついて焦点が合わないというのはきついですし、
その状況を背負ったときには後頭骨が下降して脳内への血液供給量も低下する。
健康体であればあるほど、この状態になれば四六時中ストレッチをしたくなり、
叫びたくなるほど体の奥がムズムズして嫌な感じなんですよね。
眼の奥も変な感じですし。

ですが、症状というものを数えるだけでは問題の解決にはなりません。

私自身、自身の体の状態をつぶさに観察するよう時間をかけるうちに、

今回の特筆すべき特徴として、
頭皮の張りがきつくなっていたり、
頭の形状自体が変形しているよう。

。。。など状態の異常を見つけた。


「それでは、そこをきっちり対処しようか。。。」
と肚をくくります。


12ある経絡の終着点は、頭となります。
経絡の緊張は必ず頭に必ず現れてきます。

それは頭に鍼を刺す頭鍼療法を調べ実感できるところでした。
はじめは、なぜ頭の治療点に鍼を打つだけで体中の特定部位に改善を促せるものなのか。
不思議さが拭えませんでしたが、
よくよく経絡図の終着点を追っていけば頭にたどり着くんです。


「目がしょぼしょぼになっているから、さぁ、こまったとなった」

そんなときには、
では目にたどり着く経絡というものは、何経絡?

調べればそれは「肝経」という肝臓関連の経絡。
肝臓から目の近所まで肝経の経絡線が伸びているのが経絡図を観てみれば読み取れます。

それじゃ、頭部の肝経に関するところを念入りにアプローチしつつ、
あとは視軸をずらせられるこめかみ部分の異常による影響部や、
後頭部の視覚野がある部分に問題があれば、そこへ改善へつながる対処をしていけばいい。

頭部へのアプローチで目の不都合改善の効果を引き出すには、
闇雲に頭を広域にゴシゴシこすってずり圧をかけるよりも、
上記に上げた肝経の経絡上に生じた経穴へと的確に刺激をいれたほうが改善率が飛躍する。

だから実質的にそれらの取穴できるプロが施した治療と、
一般の方が掛けた圧では成果の開きがでてくるものです。


そのようなアプローチをしていくことで、
私自身の目の不調は目薬をささずとも一定の改善を収めました。

目薬を挿せば一瞬は気持ちいいでしょう。
ですがそこにばかり焦点を当てて視野を狭めていれば、
やがては目の本来の機能が徐々に損なわれるよう削られていくこともあるでしょう。

そうなる前に、
「もう少し、このようになった問題点を読み解いてみよう」と考えていく時間を大切にしましょう。


ちなみにこのたびの私は、
自身の所有する本を処分しようとして、
30冊ほどスキャナーでスキャニング作業をしていました。
ほぼ3日がかりでして、左手で本をスキャナーの読み取り画面に対し押さえつけていて。
それがたたって生じたところもあります。

他には体の背面部分の筋肉を自身でいつも以上に巧みに使えるようトレーニングをしてきました。
それをがんばりすぎたという点も。
腕のいつも使わない部分の筋肉を一気に過剰に使ってしまったという、
オーバーユースによりオーバーヒート状態に陥ったことも原因ですね。

その他にも、思い当たるところはいくつもあります。



実は、この思い当たるところをしっかり見つけられるよう、
自身の状態をつねに自己観察をして脳に記録をとり続ける。
ちょっと焦ってしまうほどつらくても、
だから冷静でいられる。


そのような観察眼は、誰しもが持つべきだと願っております。


そればあれば程度の差はあれ、
強烈な肉体的な苦境を迎えても、
焦りの気持ちを拭うことはできるのです。

自分の観察眼が自分の体の動作を把握しておられれば、
普段とは違ったことをしているとわかっているならば、
以後、そこに改善を施すべき課題を見つけたということになるだけ。
そうすれば、同じ不都合が再来することはなくなることを知っているのです。
いくらだって、今後に向けてのやり方の変更を検討しうる打ち手があります。


それに対して自分を観察する習慣が弱い場合には、
実際はいつもとは違っているような特異な動きや運動、
またストレスを受けていても気付かずにいる。
すると得体のしれない恐怖の状況に落とし込まれたような魔を見た不安が心や感情に走ります。
実際に身体上に起きている肉体へのダメージに上乗せされた
精神的緊張で炎症の起きた患部が引っ張られて痛みが増す>のです。
今後に向けて、
また同様の苦しさが襲ってくるかもしれない恐怖で身を固めるようなトラウマにもなりかねません。
自分には、このようにならないようにするための操作をする自由が与えられているとは思えません。

打ち手をいくらでも持っているから大丈夫かと思えているのか、
得体のしれない苦しみがタイミングもわからず襲ってくることがあると怯えるのか。
その違いは大いにあるといえるでしょう。


肉体にかかるだけの痛み」+「精神的ストレスから生じる緊張性筋膜炎」という炎症が加わる。
後者の緊張性筋膜炎は、その者が恐怖に怯え、ストレスが増せばいくらでも痛みの加算がされます。
心のなか、感情の起伏でつくられた恐怖には、
上限設定などしづらいものですから、
緊張性筋膜炎の強さは可変するものなのです。

観察力を身に付ければ、緊張性筋膜炎が生じる心境へ足をすべらせることから回避もできます。
タフさを身にまとうこともできるようになるのです。


その好例を紹介させてください。

先日、フェイスブック等でやり取りをさせていただいている方から、
以下の様なメッセージをいただきました。

> 話しは変わりますが、ただ今、腸腰筋をかなり痛めて難儀しております。
> 研究の為に鍛えすぎて痛い痛い。
> ただ、痛めたお陰で腸骨筋と大腰筋の違いとか作用が明瞭になりました。
> 怪我の功名ですね。



このような方は、
実際に痛めた身体部位の痛みは激烈であったとしても、
緊張性筋膜炎で不安に襲われてはいないものでしょう。


冷静に、自身の動きを観察しきれているため、
自らの身体の知恵を増すしあわせを得られた。


そんなところに喜べるようでありたいですね。



人は、観察しきれずに被るダメージはコントロール力を失っているものだから。
観察できているときは、その観察が行き届いていれば自己の作動のリミットを、
必ず身体からはメッセージがきているはずなのです。
その声に耳を傾けましょう。


ただし、上記の腸腰筋を痛めてしまうほど男前な研究活動をしているときには、
限度をつたえる声が聞こえても、
笑顔で無視してその先に進んだらどうなるか、
実験してみて結果を知りたくなるものです。


・・・私も、ときどき同様なことをして苦しむことがあるので、他人事じゃない。



ですが絶対に苦しいのが大好きというわけではありません。
痛いのや苦しいのは、誰よりも怖くて避けて通りたいのです。
ですがその後の明るい未来を切り開きたくなる欲求には勝てません。

だから自身の身体が故障することを想定しつつもそこに突っ込んでいってみて、
イメージ通りに事故ってから新たな創造を得られる場に立てたことをよろこぶ。

確実に痛みや不調の原因は身体操作上の改善を促してくれる質のいい気づきを得られることを知っている。

ただし身体的な知識の基礎があまりわからないうちに大胆な故障をすると、取り返しがつかないので。
そこは十分に計算をしてやっていかねばならないのでしょう。
受益するのは自分ですから自己責任の原則を考慮して、野生の本能をフルに出していくことも必要です。


上記の腸腰筋を故障中の方がどのようなことをなされたかはわかりませんが、
なにを求めてなさっているかの動機について深く共感を覚えます。
posted by スズキ at 18:06| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

「劣等感」が大成への鍵

アドラー心理学のアドラー博士が
心理学に深く興味を持ったきっかけのひとつ。

そこに『劣等感』がありました。


彼が開設したクリニックに、今は花型のサーカスのスターたち。

その多くが体が弱かったり運動ができなかった過去を持ち、
その劣等感をはねのけようと必死に誰より、努力し続ける。

体が弱かったからこそ、
子供のときにみたサーカスの空中ブランコのさっそうとした演者の笑顔に魅了された。
あこがれたのでしょう。

苦手なものを我が身につけようとするときには、
どれほど苦行になったか、本人しかわからない。

健常な団員希望をした者たちは途中でサーカス団から去ったものの、
劣等感を持った者たちが、歯を食いしばるものたちが、
サーカスの舞台でさっそうと演じるまでなっていった。

劣等感をはねのけて余りあるほどの情熱は、
かえって偉業を成し遂げる結果へと繋がる。

「劣等感が偉業を成すための鍵」

そのようなケースから劣等感には力がある。
そこにアドラー博士は惹かれて、
幾冊かの劣等感について語る著書を残した。


劣等感を持てたものに対し前向きを迫る力は、
人生を明確に、そして大きく変える。

そんな一歩を踏み出す力の源泉となるといえるだろう。
 

そういえば、私自身も、元々体が本当に虚弱でしたし、
かなり劣等感の固まりのようでもありましたから。

劣等感というよりも、悲観的でもあったのですが、
それでも、
「そのままじゃ、情けないよな・・・」
とか
「悔しいです!」と、ザブングルの加藤さんがシャウトするかのような気持ちも。^-^;

ただ後ろ向きになるのも勇気が入ります。
そんなことをすれば、劣等感が確実に増していくだけですから。
やっちゃいけないことの筆頭ですよね〜。
そこは、、、。

遅々とした自らの歩みの速度を大事に保ちながら、
劣等感を癒やせる力を求め変化し続けてきました。

私自身は、それほど現状大成するものではございませんが、
施術での品質、付加できる価値、そして施術で関わったお客様の感動の声を聞いて喜べてきました。
それで、私は、じゅうぶんにしあわせな気持ちでいることができております。




あと、他の人を道連れにしてしまうのもなんなのですが、、、。
最近、騎手の宮崎さんとメールでやり取りをさせていただいていて。
先日私のブログでとりあげさせていただいた方なのですが。

2017年08月11日
あなたは ”Z-health” って、ご存知でしょうか? ^-^
http://bodywise-note.seesaa.net/article/452598938.html
興味ある方は参照のこと。 ^-^


彼に魅力を感じたことがあります。

どういったことかというと、、、。

私は随分前のことですが、
彼の施術を一度したことがありました。
そこの彼の体に書かれていたものを、
よくよく触れて知ってしまったからでしょう。

もちろん騎手をなさられるだけの力量はしっかりしておありだと確信します。
ただ潤沢な体力等を備えられているから戦えているわけじゃないのはわかる。

精神力を熱く膨らませつづけて前進し続けて、
目の前に現れたことに取り組み続けて成熟へ。
葛藤を持ちながらがんばっているんだろうな。
勝手にそのように感じていたことがあります。

今考えれば、身体的な劣等感を持っておられる自覚を持ちつつも、
目標となる騎手を仰いでトレーニングに励み続けて夢をかなえる。
劣等感をバネにして他者を凌ぎに凌ぐ力に変える執念。
そんなものをお持ちだなと、施術をして感じたことがありました。

そして彼は、これから Z-health という新たな自力を伸ばす力を得たことで、
本業を下支えしてくれるものと信じてやっていこうとしておられるそうです。

落馬事故を起こされて大変な怪我をなさったことがあって、
私としては心配していたのです。
落馬事故を知り、
おそらく多数の方々から安否を案ずるメールをもらっているだろうから、
私が書くのはなんだか面倒をかけるんじゃないかと思って、
書くかどうか5日間位は迷ったんですが。 ^-^;
大怪我だが無事だとのメールの返信をいただいて、
安堵したことを覚えています。


宮崎さん。
重症でベッドに横たわりながら
身体操作の研究をし続けたといいます。
それで Z-health へ深く学び関われる時間を得たことに。

なるほど、なるほど。
やることが前向きで、
骨がありますよね〜。 ^-^

こういう人は、
大成するかどうかよりも、
とにかく自分のやりたいことに対してどんな手を使ってでも工夫してそれを得ようと頑張り続けられる。
そういうことなのでしょう。





私は、劣等感という自他を比べたときの身をすくめたくなるつらさにも。
自身の多様な価値を認め、
それに近づくためのゴールを含んだものとして考えていこうと思います。


そう思えるようになってきたときから、
劣等感を背負っていた自分の姿からも、
そっから好きになったと受け入れられだした気がしてなりません。



また、施術の仕事をさせていただいておりますと、
お客様の中にはとても人に自分の体験を語ってもわかっていただけないだろうと思えるほど、
心中、深刻でつらい身体上の思いを持ち続けてきた方々もおられます。
そのようなお客様を、何人も、何十人も関わってきました。

私自身では、いまだに人間ができていないところがあって、
うまく寄り添い続けるということもまなならないのですが。。。

やはりそれでも、いつかは劣等感を持てたからよかったと、
口を開いていただける地へと近づく努力に身を任せていき、
いつかそこから大切な成長の緒を得るきっかけになさる人。

そのような有意義な人生を送っておられる人なのですよね。

そんな気がしております。

posted by スズキ at 15:43| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

「なぜ?」とばかり問わずに、「なんのために?」 と自問自答をしてみよう!



なぜ?」とか「どうして?」とか。

原因を追求する問いかけ方
があります。

こちらを原因追求型の原因論的問いかけといいます。


それに対して、
それはなんのため?」とか「それをだれのために?」とか。

何を目的としてそれを追求するのかを問いかけるとき。
こちらは目的を追求する目的論的問いかけといいます。



実際はどちらが優劣があって軍配があがるという問題じゃありません。
「原因論的な質問」も「目的論的な質問」も、どちらも大事なんです。

要は、ケース・バイ・ケースで、使い分けが必要なんですね。


たとえば、
原因論的な「なぜ?」と問う質問により情報をいただきたいとき。

私が初回のお客様のお体について話をお尋ねするとき。
尾骨の骨折】と付記していただけたとすると。



私:「 なぜ、そのようになったのか原因はわかっているのですか? 」

お客様:
「 私のこの尾骨の曲がりは、
  10年前に遡るが、
  学校で先生をしていてスリッパを履いて廊下を歩いていたのだが。
  いきなりそのスリッパが脱げていきなり長座で座り込むかのように尻餅をついた。
  そのときがかなりの激痛で、数日間高熱を発して寝込んだことがあった。
  もしかしたらそのときに曲がったんじゃないかと思っている。
  それからが、いまだに体全身の調子が悪くなったのだ 」

私:「 それはかなり強く尾骨を打ち付けてしまったのですね。
    具体的には、お尻のどこにどのような形でお尻を打った形になりますか? 」

お客様:
「 えっと、もう昔のことで正確には覚えてはいなけど、
  こんな感じでしたよ。
  (尻餅をついたときの状態をリアルに再現してくれている)
  そして右側の坐骨部分に衝撃が走ったことを覚えてます 」



これは尾骨骨折という過去からの結果といってよい現状の様子が、
過去10年前に尻餅をついた際から起きたことを教えていただけた。


これから私が過去の尾骨骨折をなさった方の情報を元に
目の前のお客様の様子を推測する一部を挙げれば、、、

・ 昨日今日に起きた尾骨骨折ではなく、10年前からの慢性的な不調を伴う状態だ
・ 現時点も全身の調子が芳しくないのだが、尾骨骨折が生じたときを起因としている
・ 右側の坐骨に衝撃を受けたため、
  そちら側の仙尾関節側への緊張が根づいたまま今に至るだろう。
・ 10年以上も慢性化した状態だから、
  すでに体の歪みには複雑なパターンが入り込んでいるに違いない
・ 尾骨の不調は脊椎全体を萎縮させ、
  自律神経系を不調に陥らせ、交感神経優位のまま一日中過ごすこととなる。
  それにより、
  呼吸のしづらさやときには不整脈や冷えのような血液循環の悪さがあらわれる。
  睡眠障害を起こすことも多い。
  それで体内の生命エネルギーが徐々に減少し枯渇しだす頃には
  精神的負担感が現れてくる。

そのようなことを推測することで体へのチェック項目を的確にしていきます。
かつての施術で別のお客様の対応をし発見をした経験的にもとづいて得られた知識。
そちらを活かせるならば、施術での解法が進みやすくなります。

ただ盲目的にかつての他者の肉体条件というまったく違った状況であるため、
信じ過ぎは厳禁です。
ただかつて改善できたお客様との共通項を見つけられると
その際に目の前のお客様に説明をさせていただけるときに役立つものです。
自身の体のイメージが想像がしづらい状態でいるよりも、
精神的に類似したところが改善したという人もいるんだってという例示に、
少しだけの希望を持つことができるということでしょう。

結局は、各人の体の状態は百人百様で、
それぞれの特性にあわせた鍵があって、
他人で開く鍵をさして回してみても回らないことも多いので、
私どもが事前に提示することができるというものは、
単なる希望的推測に過ぎないことなのです。

私はそう思っておりますので。。。


ただそうはいっても、
なんらヒントもない状態で解法を求められるよりも
過去の状態を今に至る原因と捉え、分析することで、
敵を知り己を知れば、、、、ということは言えていますよね。

どのような忌避事項があるだろうとか、
どのようなアプローチ方法があるだろうかなど、
過去に患われたときから今に至る原因を伺うことで、
読めてくるという部分があるので、
それはお客さまにとってみても問題解決に有利に働く情報提供になることもあります。


施術を受けるときには、
上述したように尾骨骨折を患った状況をお伺いすれば、
益が生じるということもあるだろう。
確実に、原因が起きた際の現場検証をすることで、
施術者でなければ知り得ないような情報がはじき出されていく。
そちらが施術という手当に活きていくものです。

それにお客様が施術を受けていくうちに
「あっ、そういえば、伝えたことはなかったことを思い出しました!」
というひとつの重要な情報を提供していただくことで、
その後の施術方法がガラリと変わって、さらに的を得たものになることはよくあること。


もちろん原因論的に情報を得られたとしても、
そこから安易にわかったとはいえないものもでてきます。

たとえば安全に解くための手間暇がどれだけかかるものなのか。

実際はお客様が施術を通っていただける間隔や、
お客様自身がどれだけ体の立て直しに協力的かどうかなど。
それに私自身の健康状態等に問題が生じる時もあるでしょう。

いくらだって不確定要素があるにもかかわらず、
そこに気を配らずに言葉として放つのは、
目安が欲しいと希望なさられる気持ちはわかるものの、
正確な回数等は私には知り得ることはできないのです。

そのようなふうにいろいろと原因をお伺いするにしても、
それを活かせる限度はあるので申し訳ないところもありますが。。。


施術者が施術をする場合には、原因論的に
「なぜ、その症状が起きたのでしょうか、原因は思い当たりますか?」
という質問にも一定量の価値が生まれることもあると思える点です。


それでお客様のお体の情報を差支えのないところをお伺いするのですね。






ですが、「なぜ?」とばかり原因を追求する問いかけからだけでは、
今後の問題解決につなげにくいときもあるのではないでしょうか?


たとえば、尾骨骨折で患われた方に、

「なぜ?」という質問で短絡的に問えば、

「 あのときなんだか馬鹿なことをしたんだよなぁ。
  スリッパといっても古くなって、底がつるつるだったし。
  床が濡れていて滑りやすくなっている感じだったし。
  ほんとうに悔しいなぁ・・・・   」

そんな後悔の心がもたげてきて、肩は震え意気消沈してしまう。
問題解決へ向かおうとする問ではなく、
いつしか感情的に自身を責めたり不幸感を深掘りする。


過去の失敗を根掘り葉掘り聞き出されるのは
なんでそんなことになってしまったのかと後悔。
絶望的な問答を受けているようにも感じられ、
感情エネルギーは他への注意力を失わせる。
その感情エネルギーの消費ほど疲弊感を強め、
自らの活力を失わせるものはありません。

そのときの一瞬の事故にあわなければ、
今の自分は、
こんな施術者と話をするなんて煩わしい経験をすることなんてなかっただろうに。。。

そんなつらい思いを強いてしまうこともあったと反省しなければならない。
そう私自身を振り返る時もあります。


ただ、施術者たちだけが、
「なぜ?」と患った原因追求をする問を投げかけ続けているわけではありませんよね。





お客様自身の心も、
知らず知らずのうちに
なぜ?」という原因に目を奪われてしまう

「なぜ、こんなことに・・・」
という言葉の繰り返しをすることがあります。


「なぜ?」と原因を追求しようとして。
どれだけの益があるのでしょう。

長年に渡り患われた方は、
多くはもう十二分、同じ原因論的質問の仕方で自問自答を繰り返してきたのです。

それでも、かんばしい結果が出てこないだけでなくて、
「なぜ?」と問うて、
妥当な回答が得られずに落胆する経験を積み重ねてしまう。
後でずっしりと未消化の感情のすすが溜またことに気づくのです。

お客様自身が自身を責め立てるかのように
「なぜ、こんなことになったんだ」という言葉が
脳裏で囁かれたり叫ばれたりする。

その声から心が乱されて、
意気消沈させられた状態に追い込まれてしまう。
それがもとで建設的な行動へ出にくくしてしまうこともある。




もし、そうであれば
「なぜ?」という原因を追求しようとする問から
一旦離れる時期がきたのかもしれません!






私自身も、
かつてコーチングの考えを学ぶ前では、
自身の体があまりにも施術でしんどくなりすぎて、
多くの期間の休業を余儀なくされたときには。。。
「なぜ、自分一人だけが・・・」と孤独な孤立したような閉塞感から。

自分の要領の悪さや能力の低さを責め立てた日々を続けたことがありました。

そのようなあまりにつらい状況に心身が陥ると、
防衛的反応を起こさせて、
他の方々のもっとつらいだろう方々の状況を察する余裕がなくなっていたのかもしれません。

それ以上の傷を深めさせないように、
生への執着もあって生命を守るための極端なまでの省エネモードで意識も体も操るしかないという、
問題解決には程遠い抑止の機能が強制的に発動しだしていたようです。
脳で自動的に作動される、生命の危機を回避させようとするために起こした生理的な反応で、
身を守っていたということだろうか。。。



今、その当時を振り返ってみて。

もし、そのときに自問自答の質問の仕方を、原因論的な「なぜ?」から、
目的論にもとづいた「なんのために?」へと問を変えていったらどうだろう。


そう、考えてみたことがあります。



未来に得るためのしあわせにだけ、目を向けるのです。


そこで自身の感情に情熱が燃え盛るようなものも見つかるでしょう。
元来、施術者になろうというもののほとんどは、
自身のみを省みるよりもお客様にかかわり、
少しでも良い方向へ進んでいただけてともに喜びたい。
そんな動機から、この業界に入ってきたものばかりです。

私も、ご多分に漏れず、そうです。 ^-^


一生涯をつらぬく仕事を持つことの尊さ。
そこに施術を、私は選んだのです。

なにを、これから私はしていきたいのだろうか。成し遂げてみたいのか?

そのような、今日はこれをやりたいとか明日はこれというタスクレベルではなく、
自分の生きていくための根っこの部分を掘り下げて再確認していこう。
そうしたほうが、ずっと、気持ちが建設的にもなれる。
自身の過去を振り返って失敗を悔やむのではなく、
つらい経験こそ学びの教材として最良の糧となるといいきればいい。
おそらく実際にそういうものだろうと思います。

だったらなんらかの失ったものも多くあっただろうが、
反面、得られたものも数限りない貴重で価値のあるものもあっただろう。

そのような解釈で自身を振り返る習慣が、
ここ最近の私にはありますから。

正直、打たれ強くもなりましたし、
大胆に次の手を、次の手をと進もうとする勢いも得ることができました。


そして、
「何ら制約がなかったらどうなりたいのか?」
いきなりそんなことをいうと、現実的ではないと思われるでしょう。

ですが制約ばかりでがんじがらめの夢からは
確実に最初から夢をしぼんだ絵を描きだすだけ。
脳はしぼんた設計図以上のものには関心を向けることもなくなります。

だから、「自分が何のために今の苦境を乗り越えようとしているのか?」
または、「自身の問題が改善したら誰のために幸せをよぶのだろう?」

そんなことを想像しながら、
だいぶ体がヘタってきた時も
日々を前向きに送るように心がけています。


過去に起きたような過ぎ去った事実にばかり目を向けてはいませんか?

そちらの意識チャンネルから切り替えて、
未来に起こしたいこれからの幸福な姿を得ようとすることに意識を向ける。



向かいたい方向性を明確に描きだす。

実はこれは『 ソリューションフォーカス 』と呼ばれる、
コーチング手法の一流派で用いられるステップのひとつなのです。

ソリューションフォーカスの詳細はその書籍やセミナー等に譲りたいと思いますが、
実に使い勝手のいい、自身をやる気にさせてくれる手法だといえるでしょう。




たとえば、
ソリューションフォーカスを利用するコーチに
コーチングセッションを依頼された場合には、
次のような幾つもの段階のステップを経て手順を進めて、
解決志向アプローチをなされていくことでしょう。


〜 ステップ 1 〜

もし多年に渡り苦しい身体の状況を耐えながら、
ずっと今の今までがんばってくぐり抜けてこられてきた。
コーチがいれば乗り越えてきたかつての努力に対して、
話を聞かせていただいて、
「よく、がんばってこられました」など、
その方が送られてきた今までの人生で感じた感情を伺い
親身な言葉を語り、互いに目的の共有へ向けての序章がはじまります。

それから、、、


〜 ステップ 2 〜

「今後向かいたい方向性は?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】


〜 ステップ 3 〜

「あなたは、なんのために、その状態をよくしたいのですか?」
「それがどうなればいいのですか?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】



〜 ステップ 4 〜

「それならば、それを叶えるための使えそうなアイデアやモノや人材は?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】


〜 ステップ 5 〜

「その解決へ至るまでの距離は、現時点からどれくらいなの?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】



〜 ステップ 6 〜

「じゃあ、その解決へ向けての小さな第一歩って?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】


〜 ステップ 7 〜

「その小さなステップを登ってみて、どんな変化が起きた?」

  【質問に対してのクライアントの反応や回答が続く・・・】



というような流れを基本にして
順次解決へ向けて進みつづけるために
協力し合いながら進んでいく。


その仕組通りにやってみて、
得られる価値に驚きました。


私は少しも優秀なコーチではなく、
これからもっと学ばなければと思うところなのですから、
なっていないところも多いのですが。

現に優秀なコーチにコーチを依頼して、
そこにクライアントも自身の未来を素晴らしい物へと描くよう務められれば、
明るい気持ちで問題解決へ向かい意識を集中していく助けになるだろうと思います。
やはり自分一人でノートで筆記するだけでは、
いつもの自分の殻から外に出ていくきっかけはえられない場合がほとんど。
それがプロコーチとして結果をだそうと、
クライアントの将来を飛躍させられるような言葉を発してくれたら、
逃さず最大の笑顔で
「あなたは、素敵じゃないですか!そういうことをなさりたい人なんですね」
と感情を込めてクライアントの意識に深く刺さるように
前向きで建設的な方向へ考えるのが自然に思えるような
強力な波を起こして乗せて行ってくれますから。
コーチという他人が関わることの凄さって、あるんですよね。






以上、かなりながながとした長文。
かつ読みづらい文章をお読みいただけたことに、
深く感謝いたします!!


「なぜ?こうなってしまったんだ・・・」という自問自答は、
やり過ぎれば、負のループスパイラルに陥るときもある。

もしそうなっていそうだと感じられたなら。

ぜひ、そこから抜けだして、
「何のために?」というこれからへ明るいスポットライトを
必死に照射して未来を描いてみませんか?

そして口に出した夢へと進むための
ほんとうにささやかすぎるほどのスモールステップを
時間をかけながら着々とこなし進んでいく決心をしましょう。

ちりも積もれば確実に山になるんです!!


慢性化した疾患や、
心的なトラウマ等を持っておられる方には、
原因論的に自身の体の様子を捉える傾向があるように思えます。

それに当たりそうもない方も多数おられるのですが。

こういったソリューションフォーカスのようなコーチングセッションを
幾度か繰り返しやっていくうちに、
考え方や思考グセが、
いつしか感情を傷つけることもある原因論偏重から、
結局はしあわせを求めて人は生きればいいという目的論へ。

だんだん思考慣れが始まっていきます。



そしてこれまたケース・バイ・ケースではあろうとはおもいますが、
目的論的な見方で自身の望む未来へスポットライトを当てて
そこを丁寧に観るようにしていったほうが、感情のストレスが減る。

おそらくそんなのも手伝ってか、
かなり原因論から練習で目的論的思考慣れをしておくと、
体の筋肉の緩み具合も調子がいい状態で維持しやすいようです。

逆に慢性的な患っているところがあったりしつつ
原因論的に自身を責め続けようとする習慣があると、
こころなしか感情エネルギーの浪費から心も疲れが出て
体の緊張も進みやすいように思えるのです。



これは直接的に圧をかけて施術をするというようなことではありませんが、
私は自身の思考パターンの最良化を試みた分だけ、
身体もそれに少なからずリンクして調子が良くなるように思えてなりません。





posted by スズキ at 14:30| Comment(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

あなたの使命は?

一昨日前、
コーチングスクールに昨年通った際に知り合った方とお会いしました。
一年弱ぶりでいつか食事でもといいスクールを無事に卒業なさった若者です。

彼は最近の活動をはなしてくれました。
自分らしさと目指す目標を明らかにし、
立派に人と関わりをもちながら羽ばたいている。

その様子をさわやかに語る彼の姿から、
私にもやる気や勇気がわいてきました。
ありがとう!

後半、コーチとしての彼のコーチングが始まった。

相手への気持ちを考慮しつつ丁寧な言葉遣い。
相手の目を見るのではなく、
相手の思い描いているビジョンを虚空に想像しながら、セッションを進めていきます。


「鈴木さんの使命は?」

と、ぐいっと、私がやっていこうと考えていることに迫ってくる。
私自身、先を考えながらいかないとまったく動かなくなる性格で、
おかげで、いつもいつもなんらかの目標や目論見を持っています。

施術では施術の分野で見据えるものがありますが。


別件で、こころの操作法では今は、未来自分史というテーマで考えています。

過去の自分史から自分を知り、
未来の自分史を先取りして描く。
それは五感を活かし続けながら見える化できるレベルでの創作です。

なんら制約がなければ、どんなことをしてみたい?
どうなってみたい?
どんな自分でありたい?
簡単にいえばそのような内観視し続けていく習慣を徹底して身につける。
そちらのトレーナーとして、やり方の指導を手助けをしていきたい。

大切なのは連続する創造的な生き方の選択です。
一度、書いてみてかきっぱなしではいけません。
いったん決めた自分史はつねに新たな気づきや自己成長で書き換えられ、
固定した死んだ物語に生きることはないようにしたい。

「自分らしさ」を大事に考えつつ
他者と手を取り産み出す楽しさと、
社会への貢献もかなえられるように。

そうやって考えていく過程を通して、
「自分にとっての使命は?」という回答が求められるのでしょう。
そうでもしなければ、
そんなことは考えてもいなかったならば、
聞かれてとまどうばかりになってしまう。

どうやったら、そのようなアイデアがかなうだろうかという方法論に話が及び話をしておりました。


彼が私もなにかできることがあれば協力をしましょう!といっていただき、
コーチングが終了。



その後、その方の師匠と呼ばれていた方が、
体調不良を感じておられるようだから観てほしいという約束できたいただいた。

そこで、その師匠からのひとこと。

「鈴木さんは、これからどのようになさりたいんですか?」


えっ、またコーチングがここでも始まる兆しを感じて、ドキッとしました。

師匠と呼ばれる物腰で裏表のない存在感が卓越した方。
澄んだ目で、そのような言葉を私に投げかけてくれる。


この言葉を投げかけてくる人は、多くは自分自身が使命感に燃えている。
その口調が浅いうわっつらの言葉で、ただ聞いてみたかったというよりも、
その者の生きてきた姿や考え方の本質を浮き彫りにして、
自分の姿勢にそぐったものかどうかを吟味していくから。

うわっ滑りする思考レベルでの話をしては、
底の浅さが見透かされそうだと気づいたが。

施術中でしたから、
そこは施術で使う脳と内観部で使う脳のエリアは別箇所です。
施術の際に利用する体の透視ができなくなりそうだったので、
さほどつっこんだことはいわずに、
先ほど彼に話したばかりなのですよ〜というにお茶を濁しました。




私も、近所にそのような方がおられます。

施術中にボディワークの心得から、
患者様との接し方、そして家族への思いやりなどから、
その方の日頃なさっておられることのエピソードから、
多くこころに響く言葉をかけ続けていただきました。

自身が経験をなさったことから語っていただけるのがほとんどです。
借り物の聞きかじりを話すようなことは一切してこられません。
難しい本の概念を持ちだして煙を巻くような飛躍がない。

だからこそ私やその他の、この方の知り合いの方々に、言葉が届き響くんだろうなと感じています。


人から学ぶことって貴重です。


得てしてメッキ加工ははがれやすく、
本物志向で自身を育てたいならば、
それは誰から学ぶか、学びたいか。
そのご縁は宝物ですし、貴重です。


そんなことをつくづく感じるこの頃です。
posted by スズキ at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

ナラティブ・セラピーの本を、少しずつ読んでます

今回の予約順番待ちに並ばれた一番のお客様。

何を隠そう、誰とは言えないのが残念ですが、
私が2016年に通わせていただきましたコーチングスクールで
お知り合いになれた方でした。


そのお客様はしっかりご卒業なされたのでしょう。

私は結局、仕事の関係であと5回ほど出席日数が足らず。。。−.−;

ですが、個人的にコーチングの魅力を感じて、
勉強は続けています。




ナラティブ・アプローチとかナラティブ・セラピーと呼ばれる
物語を通じて自分の人生を改善させる心理療法を学んでいます。

人は、自分の内側で描いたストーリー通りに生きているという。

子供の頃に読み聞かせてくれた昔話。
その昔話が印象に残っているとしよう。

たとえば、
こぶとりじいさん。
あまりはっきり内容を覚えてはいないが、^-^;

ウィキペディアから、、、。

*------------------------------------------------------*

あるところに、頬に大きな瘤(こぶ)のある隣どうしの二人の翁がいた。
片方は正直で温厚、もう片方は瘤をからかった子供を殴るなど乱暴で意地悪であった。
ある日の晩、正直な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、
踊りを披露すると鬼は大変に感心して酒とご馳走をすすめ、
翌晩も来て踊るように命じ、
明日来れば返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまった。
それを聞いた隣の意地悪な翁が、
それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけると、
同じように鬼が宴会している。
隣の翁は出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は怒ってしまい、
「ええい、下手くそ!こんな瘤は返してやる。もう二度と来るな」と言って
昨日の翁から取り上げた瘤を意地悪な翁のあいた頬にくっつけると
「今日の宴会はもうやめだ」と興ざめして去ってしまった。
それから正直な翁は瘤がなくなって清々したが、
  意地悪な翁は瘤が二つになり難儀した。

(終わり)
*------------------------------------------------------*


「正直に生きればいいことがあるが、意地悪をすれば悪いことが振りかかる」

そのような教条的な内容だった。

その話から、こぶがふえたいじわるおじいさんを観て、
「いじわるをしたんだからいい気味だ」と思うならば。
いじわるをしたものは罰すればいいと冷めたいいよう。

ただいじわるをしたおじいさんは、
幼少期にいじわるをしなければならないほど
人から辛い目に遭いつづけてきた哀れな人生を送ってきたのかもしれない。
人からも愛されて優しくされて気持ちがやさしくなるよう育ってきたなら、
いじわるをしようなどとは思えないのだろう。

そう考えることはできないでしょうか?


そこで考え方ですが「物語は書き換えていいんです」。
それ以上に、むしろ書き換えてしあわせを深めるようにする必要があるのです。

もしいじわるじいさんが2つの大きなこぶを持って難儀して、
少ない人生の残り時間を悲嘆に暮れて死んでいったとすると。

「2つのこぶをかかえたいじわるじいさんは、
いつもいつも自分だけつらい仕打ちを受け続けて人生を終いまでいくのかと切なくなりました。
その後の人生でもついていない日々を過ごし、
死の間際に、恨み言をいいながら悔し涙を流しました」

というのでは、切なさを感じませんか?

それならば、一気に物語のその後を創作するんです。

「2つのこぶがふえたいじわるじいさんは、
自分の人生の時間が少なくなってきたとき。
このままじゃ、あまりに切なすぎると感じ、
先を急いで善行をつむことに邁進しました。

すると、どうでしょう。

死への道へ旅立つ間際、
『最後の最後、間に合ってよかった、よかった』
と笑顔で、愛するみんなに囲まれて、、、」

そうすることで、
自分が気に入った話に書き換えていくことで、
物語が与える自分への影響が書き換わります。

すると、
私にとって「こぶとりじいさん」の話からは
確実に温かい血が通り始めるようになります。

自分が子供の頃に好きだった昔話や絵本から、
今考えると影響を受けているような気がする。
そのような人が少なからずいます。

私にとっての「こぶとりじいさん」の書き換えように、
自分の気に入る物語に書き換えてしまえば
それからは新たな物語から影響を受け、
今の人生の基底部に関わる価値判断をしはじめる。


そのような、意味付けや意義付けが自在となる、
画期的といってよい物語の活用法があるのです。



では、それをもっと画期的な利用法はないかな?


それは、昔話を書き換えるのと同様に、
自分の人生史を書き換えていくのです。

たとえば私があなたの現在をインタビューして、
今までの自分史(パーソナルヒストリー)を話してもらう。
そこには自分の価値観の目にかなったものが編集され、
口から出てくるものです。

5w1hや思考、感情、行動の柱にしてインタビューを深めて、
客観的にその物語を見つめていく。


たとえば
体の不調からのつらさが長年に渡りつづいているとしましょう。

かなり私のとっても思い切ったつらいたとえ話です。。。

どうしても長い間、つらい時間が続いていくならば、
奇跡的な改善があると期待していたとしても、
それが裏切られた気持ちになったことがあっただろう。
それを何十回もまた何百回も繰り返してきた経験をした。

そうなったとき、
「もしも、自分のこの痛みや苦しみさえなければ・・・」
と、涙がでるほど悔しい時間を過ごしてきたことも。

そして、いつしか改善の期待をしないということが、
期待が裏切られて苦しむつらさから自分を守ることになる。
そういうことと本能的に悟り鎧を身につけて、身を固める。。。

そのような行動を無意識にとり続けるような際の呪縛は。
客観的に自分を見つめる目がなければわからないだろう。

未来を自分で予言するストーリーがどうであるのか。
無意識化に描かれて信じてしまうならば、
そのストーリー通りに進むようしはじめてしまう。

人は、経験や物語や思考や社会の影響から自分自身の進むべき道標を得る。
それらから総合した影響から物語が描かれる。

その物語は、脳から無意識のエリアにインストールされ、
その事実に気づかないまま、その人生経路を歩むようだ。



ならば、自分が気づかないうちに創造した自分史を話し、
その過去からの自分史からの惰性で生まれた思い付きが
「ちょっとこれは明るい未来じゃないな」
「達成感もなくて、よくないんじゃない」
など、書き換えたくなるような内容であったとしたなら。

過去の自分をヘタレだと責めることをやめて、
「本当によくやってきてくれたから、感謝しているよ」
「あんな、大変でつらいなか、がんばってきたよね。ありがとう。」
と感謝の言葉を散りばめて。

それまでの自分にエールを贈り、
これからの人生に花束を添えていこう。

そこからたどり着いた今の自分はどんな自分なのかを想像しよう。

そのうえでどのような未来(ゴール)を創作できたら気分がいい?
そこをイメージして話してみよう。

これからの人生を意図的に創作して、
素敵なストーリーに編集し解釈を加え書き換えます。

そうやって自分の内側に、
感動的なこれからの自分史が描き出されたときには、
その物語が、今からの自分を運んでいってくれます。




手技療法の施術者にしてみれば、
このときに生じた心的なブロックの硬さは、
積極的にタッチすべきものではありません。

生兵法は怪我のもとですから、
「私にはできないことがあります」
「私の仕事の範囲を超えています」
というようにするのが正解です。

特に欧米等では、
そうすることが義務だとされます。
自分の専門外までは責任が負えないのです。

ただ施術の成果を不安定化させることは同業者の中でも知られていることでもあって、
私程度の施術者では回避して改善への道へ導ききれないこともあります。
相当に強い精神的な緊張から得られるキラーストレスからの影響を、
自分史のなかから常々受け続けてきたとするならば。

体の痛みと心の苦しみは、同時に同じエリアの脳で感じるものです。

私自身、ここ最近、自分の中に描かれた物語を話し、
自分をわかっているようでいてわかっていなかった。
そのようなことに意識が向けることができました。

私自身、
コーチングスキルをフルに使ったこれからの自分史の描き方が、
今後の自分づくりに多大な素晴らしい影響を作り出せると感じ、
少しずつ自分にあったやり方を工夫し掘り出そうと思います。


「へ〜、ナラティブ・セラピーっていうのも面白そう!」
と感じられた人がおられましたら、
多くの関係書籍がありますから読んでみてくださいね!


子供のワクワクするような目線で意図的に選択した充実した未来(ゴール)の物語を描いて、
ゴールから今の自分のいる場所まで逆算してたどる道に線を描いてください。

ときとして、このナラティブ・セラピーで得られた新たな自分史が、
モチベーションを高め続けてくれます。
それは挫けそうになったときの自分を励ましてくれるでしょう。


創りだした物語で、
ゴールの自分の姿を経験することで、
空想の映画で見たストーリーの自分が、
それに近い形で現れることもあるのかもしれない。





最後に。

私が通っていたコーチングスクールの講師は、いいました。

今の私たちの多くは、内省的に考えるのが苦手になっています。
残念ながら、現状の自分を気づいていない、知らないんです。
そして、ゴールのことも知らないんです。
そのようなことがほとんどなんです。


だからコーチは、
相手が現状の自分をよく知らないから内省してそれに気づく手伝いをするのです。
ゴールを設定するときにも、かつての自分が勇気をくじかれていたらそのままの自分なんてこの程度だという
そこそこの夢しか描こうとしないときには、粘りに粘って食らいついて、
「何ら制約がなければ何をしたい?」など、
必死にクライアントがこれは100点満点だと感じられる豊かな夢を口から出すまで、
やっていくのです。

そんな夢や希望の言葉は、最初から出てくるものじゃないかもしれませんが、
繰り返しセッションを続け、これからを生きる自分の大器を見出してもらったときに。

そのようなとき、その人の人生に深く関わることができる仕事をしたと言えるのです。

そのような姿勢で、
クライアントにインタビューをして、承認して、編集して、
唯一無比で天然記念物的オリジナルなクライアント自身が満足できる夢を語ってもらい、
それを聞き受ける役割がコーチなんです。

そのようなことを、申しておられます。


気合が入ったコーチングの末に内省的に自身を発掘して描き出した物語は、
健康面だけに限ったことではなく、
他、様々な人生に関わる羅針盤のような機能を持つものでしょう。


posted by スズキ at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

精神的ストレスからくる自らの反応を目の敵にせず、ありがとうと言おう まずはそこから。

ストレスとは?


 『生体に、外傷・中毒・寒冷・伝染病・精神的緊張などの刺激が加わったとき、生体の示す反応。
 俗に、精神的緊張。』

ということだそうです。


ストレスという精神的緊張は生理的に意味ある現象です。
ストレスがかかるような事態や状況のままでいつづけては、心身が持たないんです。

肉体的にかかるストレスで例えれば、
虎のいる未開の地で、
いきなり会いたくなかった虎にできわした時。

虎に襲われそうになった瞬間、
「逃げるか?戦うか?」の選択的な計算をおこないます。

交感神経が、スイッチオン状態になるなるときに肉体的反応は、
そのとき背中が総毛立つような反応がきまっておきるのですね。
起立筋や臀筋等の背中側が固く緊張する状態になって現れる。
私たち施術をするものは、
幾度も施術をお受けいただいているお客様の場合、
起立筋部分の硬さから
ストレスの大きさや、ストレスの長期化など読む。
我ながら器用だなと思いますが、
ボディチェックをした瞬間に感じているものです。

ストレス反応によりアクセル全開にして、
逃げる場合には全速力で、
戦うならば全力で!

それをかなえるためには交感神経を活性化させること。
瞳孔を開いて一点集中を試み、鼓動を強く早くしていつも以上に動けるよう即座にチェンジするのです。
ときには火事場の馬鹿力といえそうな潜在的な力まで発揮させます。

ストレス反応では、
自動車で言えば、アクセルを急に深く踏み込んで勢いをつけて動く。
生存を確保するために磨かれてきた機能、そのものである。
アクセルを強く踏み込む、そうする裏付け理由がある。

そうやって力強くアクセルをフルスロットルで踏み込んで、
虎からの対処をかなえられたものは生き残ることになりやすい。
それに対して例えば
アクセルの踏みが甘い人はとっさの事態に対応できない人だ。
虎に対峙したとき、退治も退散もできず生存率が下がるのだ。

そんなイメージでしょうか。


自動車を運転する人でなくとも解るように、
アクセルを強く踏み込むならば燃料を多く消費する。
そのとき膨大な体内に蓄えられたエネルギーが使われていくのです。


肉体的なストレスを受けたときには、
比較的その行為をすましたあとは緩めやすい。
ほっとひといきするために、赤ちょうちんで、
いっぱい引っ掛けて仲間と愚痴り合えばいい。^-^;
肉体的ストレスから切り離されたことを知り、
そこでストレスが切り上げられる。

ただ精神的緊張というストレスを受けたとき。
こちらのほうが長期化す問題が含まれている。
厄介な状態が見て取れるようになるだろう。
実は寝ている間でも気が休まることがなく
ストレス反応が出続けていることに
本人はあまりにも気づけなさすぎる。
それは自らの高度な機能としてストレス反応を作り出している内側から作られた反応だからです。
内観力が高ければそれに気づき、胸の内側で起きる波の振幅を弱める方法を探るでしょう。
ですがすでに頭が葛藤中で、うずまき続けているときには、
相当に自己を客観視することが難しくなっている状況で居続けるものですから。
注視する必要があるでしょう。


精神的緊張が長期に渡れば起立筋等に入り込む緊張は深層まで入り込むのです。

ただしそれと同時に
体がストレス反応を生じ物事に適応対応できるようであれば立派な面もあって、
それを無視してストレス反応を目の敵にしたり怯えてしまうのは賢明ではない。


自分のなかにもうひとりの自分を仮想して、それを責めようとするなど愚かで、
自己崩壊した状態に陥っているといえるでしょう。
意外にこの自己の機能を悪者のようにみえてしまい、
ストレスの原因という本体を退治することを忘れて
自分の持つ防衛反応を敵視して解消がありえないストレス回路を創りだす。

それは実際、ストレス反応の全体像の仕組みがわかっていれば、
馬鹿げたことのように思えてくるのだが。。。

だがストレス反応事態からくる、エネルギーロスも多大に実感できるから、
いつしかストレス反応を止めなければ殺られるという恐怖心を持ち始める。


ストレスに対処するために起きた感謝すべき生理的な対処防衛反応が起きている。
そのことを気づいていてありがたいという気持ちが、
そっちのけになってしまったとき。


それからは非常に厄介な負のスパイラルに陥ります。
それはときとして命を短くするほど厄介なものです。


よくできた施術者はその変位特徴を知っているもので、
「私がこの起立筋を緩めるだけじゃ、また固くなるのが目に見えている」
という質の凝固だというのがわかる。
そういうときには、
お客様に精神的ストレスが芯に来ている様子も見えていますと、
お伝えさせていただくこともあります。

まずは精神的ストレスに覚えしものが、
こころのなかでひとつひとつのストレスとなっている事象にセルフ・コーチング。
やることを決断して、試行錯誤しつつ一喜一憂せずに進んでいるけば、
それに見合った精神的ストレスにより生まれた背中の起立筋の硬化が消えていく。


不思議な事だが、頭のなかで、
そのストレスに戦うか逃げるかの行動を決めかねてどっちつかずのときほど、
起立筋を芯まで固める反応は強くあらわれていくものです。

内臓を正常に動かせなくなったり末端の冷えやほてりなどの
自律神経の微調整ができなくなる問題が生じる人もでてくる。


それに対して、
「よし、それから全速力で逃げて助かろう」と決めた内的には戦うことをブレーキをかけた状態であったり、
「逃げてなるものか、血潮をたぎらせて傷をおっても戦い続けるぞ」と
戦うことにアクセルを全開にしたとき。
自分の進路が腹落ちし、その言葉を自分に向かってシャウトした時。
さっきまで、ブレーキとアクセルをグーッと同時に踏んだ状態から、
適量のブレーキングをするのみにするか、
適量のアクセルを踏むだけでいいのかの選択しはじめるのです。


大胆に割り切って選択の自由を取り戻したとき
さっ、と背中の筋肉が和らぎを取り戻していく。
自律神経に問題がでていたところも癒やされる。


このようにこころの状態は、よく体の状態にリンクしているものなのですね。


心理的な内観と価値観を優先させた魂レベルの進路決断のプロセスを経て、
肉体の状態を取り戻すこともできる場合もあるのですね。

そこは施術家の領域ではないので、
難しいところもあるのですが、
昨今ではマインドフルネス認知療法など、
有益な本や講座が多数見かけられます。

ストレス反応に振り回されていると思う方がおられれば、
それらを活用していただければ、結果がついてくることでしょう。


次にあげるYouTubeの映像は、
そんな内容もわかりやすく解説してくれている。


ケリー・マクゴニガル 「ストレスを友達にする方法」



最後に。

空海は病に犯される要件を次のように分析なさいました。

「 身病の要は 四大 と 鬼 と 業 なり 」

今回のブログが長くなってしまいましたので解説は割愛させていただきますが、
さすがは空海という人物。
この短い言葉に含む見識は深くまんべんないものですね。

こちらの意味について興味がある方は、
ネットで調べてみてくださいね。^-^)
posted by スズキ at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

河合隼雄先生の「愛がある」人とのつながりの努め方とは?

日本の心理療法家として著名な河合隼雄先生のことば。

『相手に欠点がないように思われ、
何もかもうまくゆくのだったら、
その人とつきあうことは当然であり、
利己的に言っても価値のあることだから、
別に愛などという必要はないかもしれない。

欠点のある人-誰しも欠点を持っているのだが-と、
自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、
愛があるのではないだろうか。』

この考え。
私の胸をえるぐかのように深く刺さります。


私も、自分が欠点がないように思われたい。
そうのようにはできてもいないものの
理想型の幻想を求め、
息の詰まるようなときを過ごすことがあります。


「優れた私」、「役立つ私」であるならば、
愛がなくとも価値を感じて付き合ってもらえる。
必要と感じてもらえるから、来ただけの人を。
どれだけ求めていこうとするものか。。。


すると『〜すべき』『〜じゃないとだめだ』と、
過去の私が自分を苦しめ続けた思考パターンに。
どっぷりと落とし込まれてしまうわけです。

ただし、どんなにあがいても欠点があるのが人間です。

『〜すべき』と歯を食いしばり才能が優れていたとしても、
それはトータルの人間性のうちのひとかけらにしか過ぎず、
相手からは見てほしくない欠点を目ざとくみつけられます。

考えてみれば、
自分に対して「欠点を持っていたとしても、いいよ」と言い続けて、
前向きな付き合いをしつづける関係を維持する姿勢が愛情でしょう。

「欠点を持っている自分なんて、許せない」としょぼくれるよりも、
おおらかな心の声が聞こえてくるようになるでしょう。
「できてるところも、たくさんあるよね」とか。
「生きる意義は、所詮は自分で描く物語。どうこの個性を活かしてストーリーを仕上げようか」とか。


または「利己的な気持ちを超えた付き合いこそ、本道があるよね」と。
河合隼雄先生の言葉通りを受け取ってみる。
そのような心の声を胸の内に響かせるようになったとき、
人の結びつきが深まり、
同じ時代を生きる人同士の築く社(やしろ)の骨組み強度が増すのでしょう。
『利他の精神』を栄えさせ交流しシェアして生まれる豊かさを生き抜ければ。

それは首や肩の凝らない、胸のすくような気持ちで日々を暮らせる心持ちに。
それがかつてから日本に土着していた大和(やまと)のこころなのでしょう。

アドラー心理学には、『幸福の3条件』がありまして。

・自分が好き
・人を信頼している
・人に貢献する

といいったことができていれば、
幸福だというんですね。

まずは、最大限自分を好きになれるよう、
自分とのつきあい方を利己的にならずに。

少しでもそう考えるよう心がけたいですね。

最近、しみじみ、そう感じるこの頃です。
posted by スズキ at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

布施の名人になれば、オーラの色が美しくなって健康になるのでしょうね

お布施って。
お金をお賽銭箱に投げ入れたりすることばかりだと考えていませんか?

ワタシ的には、
自分の小遣いの1/10を神社仏閣巡り中にお賽銭へと目標を持っています。

信心深いというよりも、
大きな神社仏閣は末社が多くて、
まんべんなくお賽銭を箱に入れると。
小銭がドーンとなくなるのですよね。 ^-^;

ただ。

神様は別にお賽銭がほしい訳じゃありません。
ですが神社仏閣を維持するためには必要です。


ただ世の中をよくするためにおこなう布施とは、
お賽銭を持っていくばかりが能ではありません。

『雑宝蔵経』というお経に『無財の七施』という教えが書かれているそうです。
以下の7つの布施のことです。

1.眼施(げんせ)
「常によいまなざしで見て、険しい目で見ない」

2.和顔悦色施(わがんえつじきせ)
「悪い感情をあらわにして険しい表情をしない」

3.言辞施(ごんじせ)
「柔らかい言葉を出し、粗暴な言葉を使わない」

4.身施(しんせ)
損得を抜きにして、自分の身体を使って奉仕する

5.心施(しんせ)
「上記のような内容で(眼施から身施まで)供養したとしても、心に思いやりがなければ供養にならない。心に思いやりがあれば、深く供養を生ずるであろう」

6.床座施(しょうざせ)
「席を作って座らせる、あるいは自分がすでに座っている席を譲って、座っていただく」

7.房舎施(ぼうしゃせ)
「家の中に迎えて過ごしてもらう」


というお布施のやり方があるといいます。


私の知り合いの女性に、
まさにこのような『無財の七施』が板についた方がおられます。

私は、その女性がすでに反射的にそうなさっておられるような、
前向きに人と向き合い『無財の七施』といえる行動をしている。
私利私欲がまるでないままに人と素直に接することができます。


人格が高貴に身に備わることがあれば、
それは顔の表情が整えられてきますね。
自分の顔を作るのは自分の行いからで、
内面からのオーラが外へとほとばしる。

輝かしいものです。


反射的に利他的行動ができる人。
他者を愛することができる人は、
自分をも愛することができます。


すると人生は開かれていきます。
充実度したものになるでしょう。


私が、その女性がしたことに大いに感動しているところを横目に、
「なぜ、そこまでことさらにおっしゃられるか、わかりません!」
と不思議そうな目でみられています。

とてもピュアですね。 



人は、大人になれば自分の顔に責任を持たなければならない。
偏りのないバランス感覚のよい顔つきでいたいですよね。

顔や首などにあるしこりからだけではなく、
どのように考えて行動を選択していくのか。
自分の責任を持った判断から顔が作られる。

心という目に見えないものの現れが、
一番、よく表情にでてくるものです。


そこにぶれない生き方ができれば、
免疫力が向上していくことが知られています。
自身の健康にもよい影響が生まれるでしょう。


私には、いまだ『無財の七施』が反射的にはできていません。
そのような自己反省があります。
前向きに勇気を持って変わりたいと気をつけていきたいです。


財産を投じなくてもいい布施があると釈迦が説かれたのには、
いまさらながらに、深く感じ入るところがあります。

単純に良い人になればいいというのではなく、
自己を深掘りするには、そこに視線を向けよ。
そこから展開される修行があるというのでしょう。
posted by スズキ at 01:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする