2017年04月19日

あなたの使命は?

一昨日前、
コーチングスクールに昨年通った際に知り合った方とお会いしました。
一年弱ぶりでいつか食事でもといいスクールを無事に卒業なさった若者です。

彼は最近の活動をはなしてくれました。
自分らしさと目指す目標を明らかにし、
立派に人と関わりをもちながら羽ばたいている。

その様子をさわやかに語る彼の姿から、
私にもやる気や勇気がわいてきました。
ありがとう!

後半、コーチとしての彼のコーチングが始まった。

相手への気持ちを考慮しつつ丁寧な言葉遣い。
相手の目を見るのではなく、
相手の思い描いているビジョンを虚空に想像しながら、セッションを進めていきます。


「鈴木さんの使命は?」

と、ぐいっと、私がやっていこうと考えていることに迫ってくる。
私自身、先を考えながらいかないとまったく動かなくなる性格で、
おかげで、いつもいつもなんらかの目標や目論見を持っています。

施術では施術の分野で見据えるものがありますが。


別件で、こころの操作法では今は、未来自分史というテーマで考えています。

過去の自分史から自分を知り、
未来の自分史を先取りして描く。
それは五感を活かし続けながら見える化できるレベルでの創作です。

なんら制約がなければ、どんなことをしてみたい?
どうなってみたい?
どんな自分でありたい?
簡単にいえばそのような内観視し続けていく習慣を徹底して身につける。
そちらのトレーナーとして、やり方の指導を手助けをしていきたい。

大切なのは連続する創造的な生き方の選択です。
一度、書いてみてかきっぱなしではいけません。
いったん決めた自分史はつねに新たな気づきや自己成長で書き換えられ、
固定した死んだ物語に生きることはないようにしたい。

「自分らしさ」を大事に考えつつ
他者と手を取り産み出す楽しさと、
社会への貢献もかなえられるように。

そうやって考えていく過程を通して、
「自分にとっての使命は?」という回答が求められるのでしょう。
そうでもしなければ、
そんなことは考えてもいなかったならば、
聞かれてとまどうばかりになってしまう。

どうやったら、そのようなアイデアがかなうだろうかという方法論に話が及び話をしておりました。


彼が私もなにかできることがあれば協力をしましょう!といっていただき、
コーチングが終了。



その後、その方の師匠と呼ばれていた方が、
体調不良を感じておられるようだから観てほしいという約束できたいただいた。

そこで、その師匠からのひとこと。

「鈴木さんは、これからどのようになさりたいんですか?」


えっ、またコーチングがここでも始まる兆しを感じて、ドキッとしました。

師匠と呼ばれる物腰で裏表のない存在感が卓越した方。
澄んだ目で、そのような言葉を私に投げかけてくれる。


この言葉を投げかけてくる人は、多くは自分自身が使命感に燃えている。
その口調が浅いうわっつらの言葉で、ただ聞いてみたかったというよりも、
その者の生きてきた姿や考え方の本質を浮き彫りにして、
自分の姿勢にそぐったものかどうかを吟味していくから。

うわっ滑りする思考レベルでの話をしては、
底の浅さが見透かされそうだと気づいたが。

施術中でしたから、
そこは施術で使う脳と内観部で使う脳のエリアは別箇所です。
施術の際に利用する体の透視ができなくなりそうだったので、
さほどつっこんだことはいわずに、
先ほど彼に話したばかりなのですよ〜というにお茶を濁しました。




私も、近所にそのような方がおられます。

施術中にボディワークの心得から、
患者様との接し方、そして家族への思いやりなどから、
その方の日頃なさっておられることのエピソードから、
多くこころに響く言葉をかけ続けていただきました。

自身が経験をなさったことから語っていただけるのがほとんどです。
借り物の聞きかじりを話すようなことは一切してこられません。
難しい本の概念を持ちだして煙を巻くような飛躍がない。

だからこそ私やその他の、この方の知り合いの方々に、言葉が届き響くんだろうなと感じています。


人から学ぶことって貴重です。


得てしてメッキ加工ははがれやすく、
本物志向で自身を育てたいならば、
それは誰から学ぶか、学びたいか。
そのご縁は宝物ですし、貴重です。


そんなことをつくづく感じるこの頃です。
posted by スズキ at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

ナラティブ・セラピーの本を、少しずつ読んでます

今回の予約順番待ちに並ばれた一番のお客様。

何を隠そう、誰とは言えないのが残念ですが、
私が2016年に通わせていただきましたコーチングスクールで
お知り合いになれた方でした。


そのお客様はしっかりご卒業なされたのでしょう。

私は結局、仕事の関係であと5回ほど出席日数が足らず。。。−.−;

ですが、個人的にコーチングの魅力を感じて、
勉強は続けています。




ナラティブ・アプローチとかナラティブ・セラピーと呼ばれる
物語を通じて自分の人生を改善させる心理療法を学んでいます。

人は、自分の内側で描いたストーリー通りに生きているという。

子供の頃に読み聞かせてくれた昔話。
その昔話が印象に残っているとしよう。

たとえば、
こぶとりじいさん。
あまりはっきり内容を覚えてはいないが、^-^;

ウィキペディアから、、、。

*------------------------------------------------------*

あるところに、頬に大きな瘤(こぶ)のある隣どうしの二人の翁がいた。
片方は正直で温厚、もう片方は瘤をからかった子供を殴るなど乱暴で意地悪であった。
ある日の晩、正直な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、
踊りを披露すると鬼は大変に感心して酒とご馳走をすすめ、
翌晩も来て踊るように命じ、
明日来れば返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまった。
それを聞いた隣の意地悪な翁が、
それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけると、
同じように鬼が宴会している。
隣の翁は出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は怒ってしまい、
「ええい、下手くそ!こんな瘤は返してやる。もう二度と来るな」と言って
昨日の翁から取り上げた瘤を意地悪な翁のあいた頬にくっつけると
「今日の宴会はもうやめだ」と興ざめして去ってしまった。
それから正直な翁は瘤がなくなって清々したが、
  意地悪な翁は瘤が二つになり難儀した。

(終わり)
*------------------------------------------------------*


「正直に生きればいいことがあるが、意地悪をすれば悪いことが振りかかる」

そのような教条的な内容だった。

その話から、こぶがふえたいじわるおじいさんを観て、
「いじわるをしたんだからいい気味だ」と思うならば。
いじわるをしたものは罰すればいいと冷めたいいよう。

ただいじわるをしたおじいさんは、
幼少期にいじわるをしなければならないほど
人から辛い目に遭いつづけてきた哀れな人生を送ってきたのかもしれない。
人からも愛されて優しくされて気持ちがやさしくなるよう育ってきたなら、
いじわるをしようなどとは思えないのだろう。

そう考えることはできないでしょうか?


そこで考え方ですが「物語は書き換えていいんです」。
それ以上に、むしろ書き換えてしあわせを深めるようにする必要があるのです。

もしいじわるじいさんが2つの大きなこぶを持って難儀して、
少ない人生の残り時間を悲嘆に暮れて死んでいったとすると。

「2つのこぶをかかえたいじわるじいさんは、
いつもいつも自分だけつらい仕打ちを受け続けて人生を終いまでいくのかと切なくなりました。
その後の人生でもついていない日々を過ごし、
死の間際に、恨み言をいいながら悔し涙を流しました」

というのでは、切なさを感じませんか?

それならば、一気に物語のその後を創作するんです。

「2つのこぶがふえたいじわるじいさんは、
自分の人生の時間が少なくなってきたとき。
このままじゃ、あまりに切なすぎると感じ、
先を急いで善行をつむことに邁進しました。

すると、どうでしょう。

死への道へ旅立つ間際、
『最後の最後、間に合ってよかった、よかった』
と笑顔で、愛するみんなに囲まれて、、、」

そうすることで、
自分が気に入った話に書き換えていくことで、
物語が与える自分への影響が書き換わります。

すると、
私にとって「こぶとりじいさん」の話からは
確実に温かい血が通り始めるようになります。

自分が子供の頃に好きだった昔話や絵本から、
今考えると影響を受けているような気がする。
そのような人が少なからずいます。

私にとっての「こぶとりじいさん」の書き換えように、
自分の気に入る物語に書き換えてしまえば
それからは新たな物語から影響を受け、
今の人生の基底部に関わる価値判断をしはじめる。


そのような、意味付けや意義付けが自在となる、
画期的といってよい物語の活用法があるのです。



では、それをもっと画期的な利用法はないかな?


それは、昔話を書き換えるのと同様に、
自分の人生史を書き換えていくのです。

たとえば私があなたの現在をインタビューして、
今までの自分史(パーソナルヒストリー)を話してもらう。
そこには自分の価値観の目にかなったものが編集され、
口から出てくるものです。

5w1hや思考、感情、行動の柱にしてインタビューを深めて、
客観的にその物語を見つめていく。


たとえば
体の不調からのつらさが長年に渡りつづいているとしましょう。

かなり私のとっても思い切ったつらいたとえ話です。。。

どうしても長い間、つらい時間が続いていくならば、
奇跡的な改善があると期待していたとしても、
それが裏切られた気持ちになったことがあっただろう。
それを何十回もまた何百回も繰り返してきた経験をした。

そうなったとき、
「もしも、自分のこの痛みや苦しみさえなければ・・・」
と、涙がでるほど悔しい時間を過ごしてきたことも。

そして、いつしか改善の期待をしないということが、
期待が裏切られて苦しむつらさから自分を守ることになる。
そういうことと本能的に悟り鎧を身につけて、身を固める。。。

そのような行動を無意識にとり続けるような際の呪縛は。
客観的に自分を見つめる目がなければわからないだろう。

未来を自分で予言するストーリーがどうであるのか。
無意識化に描かれて信じてしまうならば、
そのストーリー通りに進むようしはじめてしまう。

人は、経験や物語や思考や社会の影響から自分自身の進むべき道標を得る。
それらから総合した影響から物語が描かれる。

その物語は、脳から無意識のエリアにインストールされ、
その事実に気づかないまま、その人生経路を歩むようだ。



ならば、自分が気づかないうちに創造した自分史を話し、
その過去からの自分史からの惰性で生まれた思い付きが
「ちょっとこれは明るい未来じゃないな」
「達成感もなくて、よくないんじゃない」
など、書き換えたくなるような内容であったとしたなら。

過去の自分をヘタレだと責めることをやめて、
「本当によくやってきてくれたから、感謝しているよ」
「あんな、大変でつらいなか、がんばってきたよね。ありがとう。」
と感謝の言葉を散りばめて。

それまでの自分にエールを贈り、
これからの人生に花束を添えていこう。

そこからたどり着いた今の自分はどんな自分なのかを想像しよう。

そのうえでどのような未来(ゴール)を創作できたら気分がいい?
そこをイメージして話してみよう。

これからの人生を意図的に創作して、
素敵なストーリーに編集し解釈を加え書き換えます。

そうやって自分の内側に、
感動的なこれからの自分史が描き出されたときには、
その物語が、今からの自分を運んでいってくれます。




手技療法の施術者にしてみれば、
このときに生じた心的なブロックの硬さは、
積極的にタッチすべきものではありません。

生兵法は怪我のもとですから、
「私にはできないことがあります」
「私の仕事の範囲を超えています」
というようにするのが正解です。

特に欧米等では、
そうすることが義務だとされます。
自分の専門外までは責任が負えないのです。

ただ施術の成果を不安定化させることは同業者の中でも知られていることでもあって、
私程度の施術者では回避して改善への道へ導ききれないこともあります。
相当に強い精神的な緊張から得られるキラーストレスからの影響を、
自分史のなかから常々受け続けてきたとするならば。

体の痛みと心の苦しみは、同時に同じエリアの脳で感じるものです。

私自身、ここ最近、自分の中に描かれた物語を話し、
自分をわかっているようでいてわかっていなかった。
そのようなことに意識が向けることができました。

私自身、
コーチングスキルをフルに使ったこれからの自分史の描き方が、
今後の自分づくりに多大な素晴らしい影響を作り出せると感じ、
少しずつ自分にあったやり方を工夫し掘り出そうと思います。


「へ〜、ナラティブ・セラピーっていうのも面白そう!」
と感じられた人がおられましたら、
多くの関係書籍がありますから読んでみてくださいね!


子供のワクワクするような目線で意図的に選択した充実した未来(ゴール)の物語を描いて、
ゴールから今の自分のいる場所まで逆算してたどる道に線を描いてください。

ときとして、このナラティブ・セラピーで得られた新たな自分史が、
モチベーションを高め続けてくれます。
それは挫けそうになったときの自分を励ましてくれるでしょう。


創りだした物語で、
ゴールの自分の姿を経験することで、
空想の映画で見たストーリーの自分が、
それに近い形で現れることもあるのかもしれない。





最後に。

私が通っていたコーチングスクールの講師は、いいました。

今の私たちの多くは、内省的に考えるのが苦手になっています。
残念ながら、現状の自分を気づいていない、知らないんです。
そして、ゴールのことも知らないんです。
そのようなことがほとんどなんです。


だからコーチは、
相手が現状の自分をよく知らないから内省してそれに気づく手伝いをするのです。
ゴールを設定するときにも、かつての自分が勇気をくじかれていたらそのままの自分なんてこの程度だという
そこそこの夢しか描こうとしないときには、粘りに粘って食らいついて、
「何ら制約がなければ何をしたい?」など、
必死にクライアントがこれは100点満点だと感じられる豊かな夢を口から出すまで、
やっていくのです。

そんな夢や希望の言葉は、最初から出てくるものじゃないかもしれませんが、
繰り返しセッションを続け、これからを生きる自分の大器を見出してもらったときに。

そのようなとき、その人の人生に深く関わることができる仕事をしたと言えるのです。

そのような姿勢で、
クライアントにインタビューをして、承認して、編集して、
唯一無比で天然記念物的オリジナルなクライアント自身が満足できる夢を語ってもらい、
それを聞き受ける役割がコーチなんです。

そのようなことを、申しておられます。


気合が入ったコーチングの末に内省的に自身を発掘して描き出した物語は、
健康面だけに限ったことではなく、
他、様々な人生に関わる羅針盤のような機能を持つものでしょう。


posted by スズキ at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

精神的ストレスからくる自らの反応を目の敵にせず、ありがとうと言おう まずはそこから。

ストレスとは?


 『生体に、外傷・中毒・寒冷・伝染病・精神的緊張などの刺激が加わったとき、生体の示す反応。
 俗に、精神的緊張。』

ということだそうです。


ストレスという精神的緊張は生理的に意味ある現象です。
ストレスがかかるような事態や状況のままでいつづけては、心身が持たないんです。

肉体的にかかるストレスで例えれば、
虎のいる未開の地で、
いきなり会いたくなかった虎にできわした時。

虎に襲われそうになった瞬間、
「逃げるか?戦うか?」の選択的な計算をおこないます。

交感神経が、スイッチオン状態になるなるときに肉体的反応は、
そのとき背中が総毛立つような反応がきまっておきるのですね。
起立筋や臀筋等の背中側が固く緊張する状態になって現れる。
私たち施術をするものは、
幾度も施術をお受けいただいているお客様の場合、
起立筋部分の硬さから
ストレスの大きさや、ストレスの長期化など読む。
我ながら器用だなと思いますが、
ボディチェックをした瞬間に感じているものです。

ストレス反応によりアクセル全開にして、
逃げる場合には全速力で、
戦うならば全力で!

それをかなえるためには交感神経を活性化させること。
瞳孔を開いて一点集中を試み、鼓動を強く早くしていつも以上に動けるよう即座にチェンジするのです。
ときには火事場の馬鹿力といえそうな潜在的な力まで発揮させます。

ストレス反応では、
自動車で言えば、アクセルを急に深く踏み込んで勢いをつけて動く。
生存を確保するために磨かれてきた機能、そのものである。
アクセルを強く踏み込む、そうする裏付け理由がある。

そうやって力強くアクセルをフルスロットルで踏み込んで、
虎からの対処をかなえられたものは生き残ることになりやすい。
それに対して例えば
アクセルの踏みが甘い人はとっさの事態に対応できない人だ。
虎に対峙したとき、退治も退散もできず生存率が下がるのだ。

そんなイメージでしょうか。


自動車を運転する人でなくとも解るように、
アクセルを強く踏み込むならば燃料を多く消費する。
そのとき膨大な体内に蓄えられたエネルギーが使われていくのです。


肉体的なストレスを受けたときには、
比較的その行為をすましたあとは緩めやすい。
ほっとひといきするために、赤ちょうちんで、
いっぱい引っ掛けて仲間と愚痴り合えばいい。^-^;
肉体的ストレスから切り離されたことを知り、
そこでストレスが切り上げられる。

ただ精神的緊張というストレスを受けたとき。
こちらのほうが長期化す問題が含まれている。
厄介な状態が見て取れるようになるだろう。
実は寝ている間でも気が休まることがなく
ストレス反応が出続けていることに
本人はあまりにも気づけなさすぎる。
それは自らの高度な機能としてストレス反応を作り出している内側から作られた反応だからです。
内観力が高ければそれに気づき、胸の内側で起きる波の振幅を弱める方法を探るでしょう。
ですがすでに頭が葛藤中で、うずまき続けているときには、
相当に自己を客観視することが難しくなっている状況で居続けるものですから。
注視する必要があるでしょう。


精神的緊張が長期に渡れば起立筋等に入り込む緊張は深層まで入り込むのです。

ただしそれと同時に
体がストレス反応を生じ物事に適応対応できるようであれば立派な面もあって、
それを無視してストレス反応を目の敵にしたり怯えてしまうのは賢明ではない。


自分のなかにもうひとりの自分を仮想して、それを責めようとするなど愚かで、
自己崩壊した状態に陥っているといえるでしょう。
意外にこの自己の機能を悪者のようにみえてしまい、
ストレスの原因という本体を退治することを忘れて
自分の持つ防衛反応を敵視して解消がありえないストレス回路を創りだす。

それは実際、ストレス反応の全体像の仕組みがわかっていれば、
馬鹿げたことのように思えてくるのだが。。。

だがストレス反応事態からくる、エネルギーロスも多大に実感できるから、
いつしかストレス反応を止めなければ殺られるという恐怖心を持ち始める。


ストレスに対処するために起きた感謝すべき生理的な対処防衛反応が起きている。
そのことを気づいていてありがたいという気持ちが、
そっちのけになってしまったとき。


それからは非常に厄介な負のスパイラルに陥ります。
それはときとして命を短くするほど厄介なものです。


よくできた施術者はその変位特徴を知っているもので、
「私がこの起立筋を緩めるだけじゃ、また固くなるのが目に見えている」
という質の凝固だというのがわかる。
そういうときには、
お客様に精神的ストレスが芯に来ている様子も見えていますと、
お伝えさせていただくこともあります。

まずは精神的ストレスに覚えしものが、
こころのなかでひとつひとつのストレスとなっている事象にセルフ・コーチング。
やることを決断して、試行錯誤しつつ一喜一憂せずに進んでいるけば、
それに見合った精神的ストレスにより生まれた背中の起立筋の硬化が消えていく。


不思議な事だが、頭のなかで、
そのストレスに戦うか逃げるかの行動を決めかねてどっちつかずのときほど、
起立筋を芯まで固める反応は強くあらわれていくものです。

内臓を正常に動かせなくなったり末端の冷えやほてりなどの
自律神経の微調整ができなくなる問題が生じる人もでてくる。


それに対して、
「よし、それから全速力で逃げて助かろう」と決めた内的には戦うことをブレーキをかけた状態であったり、
「逃げてなるものか、血潮をたぎらせて傷をおっても戦い続けるぞ」と
戦うことにアクセルを全開にしたとき。
自分の進路が腹落ちし、その言葉を自分に向かってシャウトした時。
さっきまで、ブレーキとアクセルをグーッと同時に踏んだ状態から、
適量のブレーキングをするのみにするか、
適量のアクセルを踏むだけでいいのかの選択しはじめるのです。


大胆に割り切って選択の自由を取り戻したとき
さっ、と背中の筋肉が和らぎを取り戻していく。
自律神経に問題がでていたところも癒やされる。


このようにこころの状態は、よく体の状態にリンクしているものなのですね。


心理的な内観と価値観を優先させた魂レベルの進路決断のプロセスを経て、
肉体の状態を取り戻すこともできる場合もあるのですね。

そこは施術家の領域ではないので、
難しいところもあるのですが、
昨今ではマインドフルネス認知療法など、
有益な本や講座が多数見かけられます。

ストレス反応に振り回されていると思う方がおられれば、
それらを活用していただければ、結果がついてくることでしょう。


次にあげるYouTubeの映像は、
そんな内容もわかりやすく解説してくれている。


ケリー・マクゴニガル 「ストレスを友達にする方法」



最後に。

空海は病に犯される要件を次のように分析なさいました。

「 身病の要は 四大 と 鬼 と 業 なり 」

今回のブログが長くなってしまいましたので解説は割愛させていただきますが、
さすがは空海という人物。
この短い言葉に含む見識は深くまんべんないものですね。

こちらの意味について興味がある方は、
ネットで調べてみてくださいね。^-^)
posted by スズキ at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

河合隼雄先生の「愛がある」人とのつながりの努め方とは?

日本の心理療法家として著名な河合隼雄先生のことば。

『相手に欠点がないように思われ、
何もかもうまくゆくのだったら、
その人とつきあうことは当然であり、
利己的に言っても価値のあることだから、
別に愛などという必要はないかもしれない。

欠点のある人-誰しも欠点を持っているのだが-と、
自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、
愛があるのではないだろうか。』

この考え。
私の胸をえるぐかのように深く刺さります。


私も、自分が欠点がないように思われたい。
そうのようにはできてもいないものの
理想型の幻想を求め、
息の詰まるようなときを過ごすことがあります。


「優れた私」、「役立つ私」であるならば、
愛がなくとも価値を感じて付き合ってもらえる。
必要と感じてもらえるから、来ただけの人を。
どれだけ求めていこうとするものか。。。


すると『〜すべき』『〜じゃないとだめだ』と、
過去の私が自分を苦しめ続けた思考パターンに。
どっぷりと落とし込まれてしまうわけです。

ただし、どんなにあがいても欠点があるのが人間です。

『〜すべき』と歯を食いしばり才能が優れていたとしても、
それはトータルの人間性のうちのひとかけらにしか過ぎず、
相手からは見てほしくない欠点を目ざとくみつけられます。

考えてみれば、
自分に対して「欠点を持っていたとしても、いいよ」と言い続けて、
前向きな付き合いをしつづける関係を維持する姿勢が愛情でしょう。

「欠点を持っている自分なんて、許せない」としょぼくれるよりも、
おおらかな心の声が聞こえてくるようになるでしょう。
「できてるところも、たくさんあるよね」とか。
「生きる意義は、所詮は自分で描く物語。どうこの個性を活かしてストーリーを仕上げようか」とか。


または「利己的な気持ちを超えた付き合いこそ、本道があるよね」と。
河合隼雄先生の言葉通りを受け取ってみる。
そのような心の声を胸の内に響かせるようになったとき、
人の結びつきが深まり、
同じ時代を生きる人同士の築く社(やしろ)の骨組み強度が増すのでしょう。
『利他の精神』を栄えさせ交流しシェアして生まれる豊かさを生き抜ければ。

それは首や肩の凝らない、胸のすくような気持ちで日々を暮らせる心持ちに。
それがかつてから日本に土着していた大和(やまと)のこころなのでしょう。

アドラー心理学には、『幸福の3条件』がありまして。

・自分が好き
・人を信頼している
・人に貢献する

といいったことができていれば、
幸福だというんですね。

まずは、最大限自分を好きになれるよう、
自分とのつきあい方を利己的にならずに。

少しでもそう考えるよう心がけたいですね。

最近、しみじみ、そう感じるこの頃です。
posted by スズキ at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

布施の名人になれば、オーラの色が美しくなって健康になるのでしょうね

お布施って。
お金をお賽銭箱に投げ入れたりすることばかりだと考えていませんか?

ワタシ的には、
自分の小遣いの1/10を神社仏閣巡り中にお賽銭へと目標を持っています。

信心深いというよりも、
大きな神社仏閣は末社が多くて、
まんべんなくお賽銭を箱に入れると。
小銭がドーンとなくなるのですよね。 ^-^;

ただ。

神様は別にお賽銭がほしい訳じゃありません。
ですが神社仏閣を維持するためには必要です。


ただ世の中をよくするためにおこなう布施とは、
お賽銭を持っていくばかりが能ではありません。

『雑宝蔵経』というお経に『無財の七施』という教えが書かれているそうです。
以下の7つの布施のことです。

1.眼施(げんせ)
「常によいまなざしで見て、険しい目で見ない」

2.和顔悦色施(わがんえつじきせ)
「悪い感情をあらわにして険しい表情をしない」

3.言辞施(ごんじせ)
「柔らかい言葉を出し、粗暴な言葉を使わない」

4.身施(しんせ)
損得を抜きにして、自分の身体を使って奉仕する

5.心施(しんせ)
「上記のような内容で(眼施から身施まで)供養したとしても、心に思いやりがなければ供養にならない。心に思いやりがあれば、深く供養を生ずるであろう」

6.床座施(しょうざせ)
「席を作って座らせる、あるいは自分がすでに座っている席を譲って、座っていただく」

7.房舎施(ぼうしゃせ)
「家の中に迎えて過ごしてもらう」


というお布施のやり方があるといいます。


私の知り合いの女性に、
まさにこのような『無財の七施』が板についた方がおられます。

私は、その女性がすでに反射的にそうなさっておられるような、
前向きに人と向き合い『無財の七施』といえる行動をしている。
私利私欲がまるでないままに人と素直に接することができます。


人格が高貴に身に備わることがあれば、
それは顔の表情が整えられてきますね。
自分の顔を作るのは自分の行いからで、
内面からのオーラが外へとほとばしる。

輝かしいものです。


反射的に利他的行動ができる人。
他者を愛することができる人は、
自分をも愛することができます。


すると人生は開かれていきます。
充実度したものになるでしょう。


私が、その女性がしたことに大いに感動しているところを横目に、
「なぜ、そこまでことさらにおっしゃられるか、わかりません!」
と不思議そうな目でみられています。

とてもピュアですね。 



人は、大人になれば自分の顔に責任を持たなければならない。
偏りのないバランス感覚のよい顔つきでいたいですよね。

顔や首などにあるしこりからだけではなく、
どのように考えて行動を選択していくのか。
自分の責任を持った判断から顔が作られる。

心という目に見えないものの現れが、
一番、よく表情にでてくるものです。


そこにぶれない生き方ができれば、
免疫力が向上していくことが知られています。
自身の健康にもよい影響が生まれるでしょう。


私には、いまだ『無財の七施』が反射的にはできていません。
そのような自己反省があります。
前向きに勇気を持って変わりたいと気をつけていきたいです。


財産を投じなくてもいい布施があると釈迦が説かれたのには、
いまさらながらに、深く感じ入るところがあります。

単純に良い人になればいいというのではなく、
自己を深掘りするには、そこに視線を向けよ。
そこから展開される修行があるというのでしょう。
posted by スズキ at 01:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月22日

私が最近に考えている「決断ができないなぁ」と感じるときの対処法

判断力が鈍く感じるとき。
ありませんか。 ^-^;

もう、頭のなかでは「これきゃない!」と結論づけができているが、
それにもかかわらず「本当にこれでいいか」と言って変化を恐れる。

人は変化するには勇気が必要です。
徹底した勇気づけがされてみて「これでいい!」と思えることです。
それが必要なのです。

ただそんな勇気づけがなされたはずなのに、
それにもかかわらず「やっぱり行動に移すには盲点があって落とし穴があるかも・・・」と不安がもたげる。
そのようなときは圧倒的なフィジカルな勢いが必要になることがあるのです。

私の個人的な勝手な考えですが、
お聞きいただければ幸いです。


・-------------------------・


アレクサンダーローエンのバイオエナジェティックス。

そちらのジャンルの本から、
呼吸機能が改善しなければ、
肉体ばかりではなく精神的な抑圧もよくなることはない。

そのように書かれているページがあります。
個人的な感想ですが「私もそう思います!」


精神的な安定が、かなえられるようになりたいと思うとき。
特に胸郭のブレーキになってしまっている部分を緩めて、
体全身の呼吸をかなえられるような基礎作りをしていく。


徹底的に胸郭を緩めて各肋骨や胸骨・胸椎などの正常な位置と可動域を正常化させること。

ただ優良な呼吸とは横隔膜の動きのみではない。
腰部裏側の膨らみを作り、骨盤底筋を動かす。
胴体部分の体幹を前後に反らすこととなって。
腕や脚も、呼気と吸気では動きがでるのです。


そして呼吸からの視点が超えてしまうのだが、
ゆだねることも抑圧を解放するために必要だ。

それにはどのような具体的方法があるか?

たとえば、それは「ワッツ」という人肌の温度に暖められた温水内でおこなう他動的エクササイズ。
私は体験したことがありませんが、
すばらしい成果があると聞きました。

身も心もゆだねる作用がディープに生まれるため、
目立った改善例も多いようです。

それは実際に精神的な強いトラウマのようなストレスを受けて、
それがPTSDのようになり生きづらくなってしまった人達が、
ワッツを受けることで大きな改善成果を受け取ることができる。




あなたは、心底、ディープなリラックスを体感したとき。

ありますか?

たとえば右脳がドーンと活性化し、
左脳とうまく噛み合って働き出す。

そのような左右の脳を高速にまんべんなく情報をやり取りしだすような反応も起こるようです。

私は気ぜわしくて仕事をしていて、
リラックスしようと座禅をしても、
悩みや気がかりがあれば難しいし。

そのような日常に染まりながらの
アイデアならば、十分な力がない。

そのような弱さを感じています。

一度、たとえばしっかり胸郭をリリースを筆頭として、
呼吸システム全体の機能向上ために様々な対処をする。
それから自分の身体を深く委ね任せられるような体験。
ワッツもいいでしょうし
それだけでなく他にも様々あると思いますので探し、
そして実践してみるようにする。

そんなプロセスを幾度か繰り返して成果がでるまで取り組む。

そうやって抑圧されたこころと体が開放されたときに、
素のままの自分をありのままに見つめられるはずです。


あるがままのものを、
あるがままにみられるならば。
それは悟りにも近い賢明な知恵を生みだします。


そのような経験を得た後に、
堂々巡りして決断しづらいことも
さっぱりと蹴りをつけられるものでしょう。


そのような気がしています。 ^-^
posted by スズキ at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

『照顧脚下(しょうこきゃっか)』

『照顧脚下(しょうこきゃっか)』


禅の極意を表す禅の言葉といわれます。


・---意味 はじまり---・
自分の足元をよくよく見よという意。
もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、
まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。
転じて、他に向かって理屈を言う前に、
まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。
また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。

▽「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。
「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る意。
・---意味 おわり ---・


一般的には、上述したような言葉なのですが、
私が好きで聞いているコーチングの先生の音声には次のように紹介されていて興味が持てました。


「『照顧脚下』という禅語があるんです。
自分の立っているところがわからなければ、スタートラインはわからない。
人それぞれ、人生におけるスタートラインは、それぞれなのだ。
自分の足もとをよく見ることでスタートする地点が、
ゴールに遠いか近いかがわかります。
スタートラインは、誰一人として同じ位置ではないのです。
だが自分の足元を見ることができれば、
いつでもそこからスタートできるのです!」


という趣旨です。


お客様が、施術を受ける初回のとき。


その時点がスタートラインです。


相当に体の知識を持った人でも
体の把握は至難の業です。


他人の粗はよく見えるが、
自分の粗は少しも見えず。


そのようなところからくるのでしょう。


だから同業者同士が施術をしたり受けたりしてみても、
互いに大きな発見がある場合も大いにあります。



ゴールの地点を決めるのは、お客様です。


ただその位置にたどりつくにしても、
スタート位置が見つけられると同時に、
ゴールの地点もどこの場所にあるのか。


そこが明確に見定められていなければ。


ゴールが見定められて、
その上でスタート位置がわかれば、
初めて向かうべき方向性が見える。
そしてゴールまでの距離がわかる。



コーチングは、コーチとの会話をしているように見えるものですが、
実際はコーチを受けるものが胸中で自問自答をするサポートをする。
クライアント自身に目を向けさせ気づきを増やさせます。
コーチがお仕着せてクライアントの方向ぎめをするのではないのだ。
照顧脚下という、足元を見る禅の極意を活かしていこうという考え。


コーチングとは、四六時中、後ろからコーチがついて回るのではなくて、
それは自動車レースをしているときのようなものだといいます。
レースカーはほとんどの時間はレース場のロードの上にいて走り続ける。
ピット・インするのは一瞬だけ。
ほんのわずかな時間でしかない。


一ヶ月のうちの90%以上の時間は、
一人で走らなければならないのです。


だからコーチができることは、
勇気づけをする言葉をかけて、
そして真剣にそのクライアントが夢をかなえられるのだと信じる信者でいつづけること。
職業としておこなっているものですから、
契約期間満了後の100%の時間を一人で走らなければならないときまでに、
どれだけ自分で考え、自問自答を繰り返して、今まで以上に合理的な判断ができるよう
リソースを増やしたり、気づきを得たりすることができるかという、視野を広げるのか。


そのようなことが大事なのだといいます。


そうするにも、どれだけコーチが真剣かという思いが伝わるかどうか。


施術をする私も、まったく同じ思いです。
施術者として接する時間は限られていて、
90%以上の時間は、私がお客様に関われる時間ではありません。


お客様ご自身が、足元を観て歩む時間がほとんどなのが事実です。


施術をお受けいただくというピット・インする状態のときに、
どれだけ真剣に、少しでも多くの視野を増していただけるように、
テクニカルなアドバイスができるか。
限りある時間、密度を高めて接するか。


私にはそれ以上に、尊いことがあります。
それはお客様が健康が増して
モアベターな状態」へステップアップしていっていただけると信じ続ける。
お客様にそうなっていただけるよう期待してそれを喜びます。


ときにはお客様の状態が、後退していることもあるでしょう。
私の関われる時間はほんの僅かなものですからしかたありません。
ときにはその状態を見て、心底、、、落胆していることもあって、
顔に出そうになるときもあるのも事実です。
人間ですから、感情もあるのです。
お金のためだけではなくて必死になっておこなう施術です。
その気持も手伝ってのことなのですね。
ですが、「照顧脚下だから、今がスタートラインだ!!」と考え直して、
原因を共に探って再度、同じ事にならないようにしていきます。


また、
私のところにばかり施術を受けて頂いて利益をこちらにというのではなく、
他にさらによい医院があればそちらに乗り換えていただいたようなときも、
自分がケアしたかのように健康になられたことを喜ぶ自信があります。
体を磨きをかけていってさらに暮らしやすい生活をして欲しいと真剣に祈っています。
純粋に体の不都合が減っていったり、体の状態がスキルアップしていったりといった、
よく生きるための下地作りのお手伝いをすることにありがたさ、感謝を感じているのです。


それが、私の施術者としてやっている「信念」なのです。
それが実際には、願いがそのままかなうかどうかという
事実がそうはならないときもあります。
ですが、そうなってほしいという「信念」から動きます。


だから毎回、力の許す限り仕上げていく勝負をしています。
今の今まで、そのようにしてきた所存です。


ただ施術上でも思慮深さに欠けてしまうところもあります。
先だってはお客様に多大なるご迷惑をお掛けしたこともありました。
そのことをこの場をお借りして、お謝りいたしたいと思います。




ちなみに、この禅語の起こりは以下の様になります。
『鎌倉時代に三光国師(1271−1361)という禅僧がおられ、
弟子の1人が「禅の極意とは何ですか」と問うと、
ただひとこと「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と答えられた』そうです。



自分の足元を見つめよう。
そこの場を受け入れよう。
そこから第一歩を歩もう。


そこに禅の極意がある。


シンプルに、噛みしめたい姿勢を表す言葉ですね。




最後に。
予約順番待ちの受付再開のときが近づいてきています
次のステップの私のゴールの方向を見極めるところに。
私も自問自答を徹底的に繰り返しながら、
自分の足元を見て、
それからゴールを目指してまいります。


現在の考えでは、
詳細はまだ未定ですが、
2月末に先着30名限定とさせていただくようにと考えています。
あまり多くの人数を受け付けないようにするのは、
先だっての予約順番待ちで長期間にわたりお待たせするのは
やはり私には耐え難いほどつらいことだなと感じたからです。



予約順番待ちの再開をする募集前に、
後日内容を公開させていただきます。


今まで以上に予約順番待ちにお並びいただくお客様に、
忌避事項についての規定を厳密化させていただいたり、
私自身の仕事の方向性からお客様にご不便やご迷惑を
おかけするようなこともあるかと思います。


ただし、私自身は、常に「信念」を持って、
その気持を持っているものがいるんですよ、
ということをわかってほしいというものが。


そこにいるとわかっているから、
たまに、施術を受けてみようかと思っていただけるようなでありましたら、
これ以上の喜びはないですよね。
posted by スズキ at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月20日

手のひらに石を握りしめて




催眠療法にも長けていた心理的アプローチをする者がいた。
彼の治療をするオフィスに、クライアントの男性が訪ねてきた。

身体の痛みに苦しがる。
この苦しさから逃れたい。

どうすればいいのか・・・。

心理的アプローチをする者に、
帰り際、次のような支持を受けた。

手のひらに収まるほどの石がある。これを次のセッションを受けるときまで、肌身はなさずに持っていなさい

男性は、なぜ石ころを持っていなければならないのかと理由を尋ねたが、
教えてくれるようなそぶりもない。
「まぁ、いいから持っておりなさい」
仕方がなく、いわれたように小石を持ち続けた。


次のセッションを受けるときに、
男はいいました。

「先生わかりました。
私の病は、まるでこの手に握り続け石のように、
ずっと自分が肌身離さず持ち続けていた物だったのですね

先生はそのことを伝えたかったに違いない。
そう思って、もうこの石の役割は終えたものと考えた。
そして石を机の上に置いて手放そうとする。

そのとき先生は「まだ石を手放さないでください。次のセッションまで持っていてください」という。



次のセッションのとき。

男、「先生、たまたま私が書類を書いていたとき、強い風が吹いてきたんです。
そのとき、私は思わず石を紙の上に乗せて飛ばないようにしたのです。
じゃまと思っていた石でも、役に立つものですね。」


結局は、「痛み」も「病い」も、この手に握りしめられた石のよう。


自分の意志で手放すこともできる。
手放そうとしていない自分がいる。

今までの自分は、それに気づいていないだけなのかもしれない。
自分で握りしめているものと気づいていればそれを机の上に置くこともできるのだ。
自分は痛みにもてあそばれるばかりではなく、
痛みから自由になるマスターでもあるのです。


握られた石が紙が飛ぶのを防いだように、
「痛み」も「病い」も、役に立てられる。
慢性痛や筋肉痛、それにどのような病や一部の大病さえ、
自分で握りしめたままの石のようなものだと感じている。


深く噛みしめたい示唆に富んだアドバイスのようだ。



体の痛みを感じながら暮らしている人もおられます。
その方にこのアドバイスを送るには勇気が必要です。

時間をかけて自分で気づくことが大切なのでしょう。

先生に教条的に「こういうものだ」と教えられても、
素直にその言葉を受け入れられづらいかもしれない。

posted by スズキ at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月09日

身をすくめて・・・じっと施術本を眺め続けるのは、、、よくない。^-^;

何を得るのかということは、何を失うのかという選択の上になりたっております。

どの仕事に取り組むか決めて集中したほうが、得られるものが多いものです。
不安だから


A B C などたくさん、
選択肢があります。
どれも魅力的なものですが、
すべてを一緒にはできない。

でも、どれも今の自分が欲しいものに違いない。
そうなると、どれも捨てられない。

Aを選択して決めるということは、
BとCを失う苦痛と不安を味わいます。
思いついた以上はABCどれもが自分。

自分のものですから、大事にしたいし、
どれも魅力的すぎて目移りがしている。
夢想すればBもCもキラキラ光り「絶対、欲しい!!」

頭のなかが行動を選択できず燻り、混乱。
そうやって仕事をためていく性格ならば、
次にも次にもたまりに貯めてしまいます。

すると余計に混乱をきたしていきます。


B・Cを棄てさることがなければ、、、
Aだけに絞るということができません。


取り組んでみれば、
ことのほか集中して数時間で対処でき、
仕事がはかどってしまったというとき。

ならば、
AをおこないBを次に、そしてCをクリアして完成!

一時期でもB・Cを消し去る不安や苦痛を得て決断。

決断するということは、
何かを得るという行為ではありません。

決断するということは、
何かを捨てる行為です。


捨てることで完璧には、
なれなくなるでしょう。
損失には違いありませんが、
なにを失えば最大な損失か、
それを考えていくしかない。

そして手元に残されたものとの縁を感じ、
まずはそちらに全脳を傾けるようにする。


切れ味よく一刀両断。
即断即決せねば流れが早い急流は渡れない。

失敗する結果を恐れず、
リスクを取るしかない。

「捨てる決断の苦痛」の意を悟ったときに、
何に集中して生きていくのかの胎動を感じ、
霧が晴れて目的地の見通しがついてきます。





私は、自室で、神社仏閣等で、
数分間〜数時間、ゆっくりと、
イメージ冥想をしていきます。

たとえば体の各部分を感じ捨てる。
目を閉じて瞼の裏側を捨てるとし、
両手、両足、胴体、、、
それらをそれぞれを丁寧に感じ、
体の各部を捨てて消し去ります。
緊張もコリも張りも、捨てます。
そして空気に溶け込ませて無に

す〜っと身が落ち着くのですが、
同時に心も穏やかにほどけます。
全身そうして丹念に意識を配る

そして今している仕事を捨てて、
友達も捨てて、ペットの猫も捨て、
好きな場も捨てて、、、。
自分の性格もひとつずつ捨てます。

あらゆる不安や恐怖も妄想ですし、
そんなものにぼったくられません。
火を着けてボッと燃やしてしまう。
徐々に巨大な概念のようなものも。

そしてしばらくすると、
すっからかんになった爽快感。

なんらぶつかり合う葛藤の芽も失せて、
混乱させることもできない、
なにもないような容器がポッカリとイメージに思い浮かぶまでたどり着きます。


改めてこの容器に捨てることができないものだけを決断して入れていくのです。
ひとまずはモンドセレクション以上に厳選。
大事なものがわかれば、行動の目鼻は付く。 ^-^)




十把一絡げでパッケージされた分析不足の思いは混乱そのものです。

自分が何を持っているか、
手持ちの物が何であるか、

無意識層にヒタ隠れているものを、
こそぎ落として引っ張り出します。
顕在意識に浮かび上がらせていく。

そうすると仏教で言うような四苦八苦も理知で分解しやすくし、
それも決断で、「これは妄想です」「これは妄想じゃないです(電話料金の支払い等)」
のようにわけることができるようになりました。

すると多くの「これは妄想です」という、
メタ化して自分勝手な解釈で自分を苦しめ、
自分を錯覚で過大過小していたりもしているので、
そこも修正をしていきます。





私がこのイメージ冥想をし始めたのは何故か?

強烈きわまりなかった背中の張りを緩和させるためです。

背中の起立筋が仕事の重圧というのもしんどいですし、
それが心身ともに体の過労で疲れすぎさせていたり、
消費税が8%になったのが10%になるといわれて、
不安や恐怖で出るも戻るも、
決めかねる混乱状態のとき。

身がすくむ思い」がしますが、そう体も反応していく
そしてこの身のすくむ型こそが、自律神経系を殲滅させ、
運動も中心軸から末端へと力の流れが失われる要因です。

ですが「身がすくむ」という状態で耐えていること自体、
緊急避難をした状態で避難場所にいる快適状態なのです。

「身をすくめてれば、いいんだよ」という、
遣り手ババの甘言で、避難場所に居着いています。

それでは本当に起きてほしくないことが起きるまで、
な〜んにも備えをすることもしていないわけですし。
突然、降って湧いたような災難も、
特に体関係のものについていえば、
気づく前に前兆があったはずです。


起立筋を緊張させて身をすくめるのは、
外界からの攻撃からのよろいを着続けているということ。

だから自分の内側で巻き起こる葛藤を、
決断するということは、何かを捨てる行為です
というように動きやすいよう身支度を整えて軽くするため削ぐ。
肝の座った人物なら、腹をくくり行動します。

背中の起立筋が硬化し緊張、短縮する状態も、
昨日の話の続きではありませんが、
自己免疫力を削ぐためものですし。




余談ですが、
たしか合気道の植芝盛平翁の話でしたか塩田剛三師範の話でしたか、、、
多数どりという多人数が一気に飛びかかってくるという場合にも、
誰かが先に自分に到達するからそれを時系列的に捌けばいいんだ、
といっていました。

まさに1/100秒を感じ反応できれば、
そういった世界になるのでしょうか。

人としてABCのタスクを観れば、
各々が個性があり、出足の早さ違い、得意技が感じられます。
人が相手ですから人に和合してみれば、
様子が手に取るように見えてくるもの。

本能的な直感と日頃の修練が実を結ぶことで覚醒したのでしょうね。

誰が来るかの妄想し瞬間、すでにこちらの出足が遅れ致命的。
他のものが急所めがけて、襲い掛かられて終わります。
もともとが小さな体です。

襲われるストレスや恐怖を捌くときに、
精神を制して平らな湖面のように静まらせ続けている。
そういった修練を若いときから指導されておればなと。

とりあえず、今からでも。



posted by スズキ at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月09日

内観フォーラムに参加させていただいて

1月7日。
内観法のフォーラムが青山大学で行われた。
そちらに参加させていただきました。

内観法』とは。

私も以前にそのような名前を聞いた記憶があるなと思いつつも、
詳細はまったく存じ上げませんでした。

フォーラム参加の前に、
内観法の初心者本を読む。

ひとりカウンセリング的なのか。

Wikipediaで内観法を調べると、

・----------------------------------・

内観療法とは、本来修養法として開発された吉本伊信の内観法を医療、
臨床心理的目的のために応用する心理療法(精神療法)のこと。
1960年代から精神医療現場に導入されるようになった。
1978年には日本内観学会が発足している。
また、国際的な評価も得られており、
2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。  
吉本のやり方をほぼそのまま行う内観原法と吉本のやり方に変化を加える内観変法がある。
また医師などの依頼で民間の研修所で行う場合と、医師が中心となって病棟内で行う場合がある。

内観療法の手順

病院で行われる場合と、民間の研修所で行われる場合があり、
以下は標準的な研修所で行われている方法である。
母、父、きょうだいなど、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての
今までの関わりを、

してもらったこと
して返したこと
迷惑をかけたこと

の3つのテーマにそって繰り返し思い出す。

これにより自分や他者への理解・信頼が深まり、
自己の存在価値・責任を自覚する事によって社会生活の改善につながると考えられる。

また内観療法は大きく分けて、内観研修所や病院で一週間篭って行う「集中内観」と、日常生活の中で1人で行う「日常内観」の2つのステージに分かれる。

集中内観では外界からの刺激が遮断された道場の中に、
屏風で狭く仕切った空間を作り、
その中で朝6時から夜9時まで続けて上のテーマについて一週間、
(6泊7日または7泊8日)内観していく。
途中1〜2時間ごとに訪れる面接者に対して、それまでに思い出した事を話す。
それに対して面接者は共感的態度で耳を傾け、かつ必要最小限の返答で応える。
その過程ではしばしば劇的な価値観の転換を伴うことがある。

・----------------------------------・


興味深いことに、
そのフォーラムの会場に入ると、
個人的な感覚であってそう宛にはならないかもしれないが、
眉間部分がぐぐと指で押されているかのような感覚がある。


そういうときは、
何らかの大切な考えのヒントがそこにあるという。
そちらに意識を集中していけよということだろう。


私が一番、内観フォーラムを通じて感じたのは、
内観フォーラム主催をなされた青山大学石井光教授が、
人はすべて教育というマインド・コントロールをされているものですから。

するとその教授の関係したゼミ生が、
洗脳とマインド・コントロールの違いを解説。
それは興味深い内容だと思う。
洗脳は、強制的に肉体に対しての懲罰なども伴うようなものもあるのだが、
マインド・コントロールは、無意識に相手に何を考え判断するかについて、
他人(または共同体感覚的意識)に価値判断を委ねてそれを尊重していく。

洗脳もこわいが、マインド・コントロールも始末におえない。


おそらく『洗脳』とか『マインド・コントロール』とかは、
すでに嫌な印象を植え付けられるような手垢がつきすぎて、
自然とそこから遠のいて身を守りたくなるものです。

ですが、、、
まっさらな状態でうまれた人間ですから、
何かに染まらなければ社会もできないし、
裸のままでは生きても行けない人間です。


人間の脳も、
パソコンのプログラムと同じようなもの。
ときにはこころもプログラムされたもの。

「自分」という一定の変数を含む公式ができあがっていて、
あらゆる状況に対処できるようなプレーンなアルゴリズムを形成している。
すると「自分らしい考え」が、
どのような状況にあったとしてもはじき出されていくことだろう。

そこで他人が多く関わって良い考え方はこういうものだと教化するという、
知恵を授けていただけることも大切なのだが。
「自分」らしい状態が、現状、あまり好きになれない。
そういったときには「自分を変えたい」から、
脳のなかの自分の見方という変数を変える必要が出てくる。

そのようなときに、
家族などの共同体感覚的つながりを密に感じることで、
自分を変えることができるのではないかという考えだ。


自分を作り出すに至った経過として、
多くの影響を受けてきた家族とのつながり。
そこを根っこから正面切って見つめていき、
自分を変えていく。


正直、親や兄弟が、どこまで自分のことを考えていてくれているのか。
それは、親や兄弟、親類縁者に直接聞いてみるのが一番いいのだろう。
すると、「さほど、あんたなんて、かまっちゃいられないしね〜」と、
覚めた答えが来ることだってありえる。
感動的なことも親から聞かせてもらえるかもしれないが、
得てして、それほど欧米のような家族に対しての愛など、
言葉に出して言えるような過程に育っていなければ。
その言葉が出てこないからという現状に、
ストレスを感じてしまうことになるだけだろう。


でも、そのようなところを直接、母に尋ねるのではなく、
自分の内側に問いかけていき、
本当に必要不可欠である共同体として生きるもの同士の感覚を呼び覚ますことに主眼が置かれた。

人の心は、自分の内側の変容でなりたっていける。
そこには、個の思いやりある気づきや発見が大事。
そこに気付き始めたら、
親からいつもおねだりをしたがっていたお子様から抜けだしていき、
大人の愛情が芽生えてくれることだろう。
その大人のセンスは、
一度芽生えれば他方に渡る社会性を円滑にしてくれるような、
強力なものとなり人生を明るく導くものと変わるだろう。

そこに親、兄弟、親類縁者との関係性を見つめなおし感謝の気持ちを、
分厚いケーブルで多量の情報を双方向に送れるかのようなパイプを作る。
それは別段、すでに亡くなっている親や祖父母のことであってもいいのだ。

人とのつながりを、感じる力。


そこが、しっかりすればいい。



アドラー心理学のアルフレッド・アドラー博士も、
人が幸せに生きるには、
・自分が好き、
・他人を信頼している、
・他人に貢献して生きていくことができる

という3つがあればいいといった。

この3つがそろわなければ、
どれひとつかけていても、
勇気をくじかれている人
といわれた。

つまり他人を信頼するという力が内観で育てられ、
そんな信頼できる自分が大好きになり、
信頼している相手なんだからちょっとでも手助けしたい。
そうなっていくようなサポートをすることを、
アドラーは「勇気づける」といっていた。

内観は「勇気づける」力があるんだろう
勇気を得た人間は、強い。
ちょっとやそっとじゃへこたれない。
それは、すでにとても幸せだからだ。

真に幸せに包まれて生きている実感があれば、
幸せを引き寄せるような脳が気配りをする。


好循環がそこに生まれ出せるだろう。


不幸から抜け出したいと必死であっても、
不幸を嘆き、
そうしている自分しか見えなければ、
それが自分らしいと当てはめてしまう。
そういったころあいでは、
自然と不幸を引き寄せるし幸運が訪れても脳がそれを自分にはふさわしくないとして
しっかりとスルーしてしまうものだ。
機械的にそうなされるだけなのだ。


悪循環は、そんなところから生じるのだろう。


今の現状、混乱した心で、
自分の胸の内側の世界で、
他人が好きだとか信頼しているとか、
そういった言葉を語りづらいものであっても。
軽くだけでも口に親兄弟やご先祖様にありがとうの言葉をだすようにできればいいと思う。

たとえ、難ありな親兄弟でも、
そこは自分が見方が大人になるための修行だろう。
つらい感じになるのではと思います。

そんなときには、
もし内観法に関心を持たれましたら、
内観のセッションを研修所などへでかけ受けてみてはいかがでしょうか。

また定期的に内観フォーラムをなさっておられるようなので、
そちらに参加して情報をえてみてもいいのではないでしょうか。
青山大学の学生の方々が、いろいろとお世話をしていただいて、
感謝の念が募ります。
ありがとうございました。m__m
貴重なフォーラムで参加させていただけてよかったです。



また知り合いの方が、
去年にゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想の10日間コースを3連続受けてきたという。

私もヴィパッサナー瞑想の本は多数出版されているため数冊、目を通していて、
内観法は知らねどもヴィパッサナー瞑想のほうは、少なからず馴染みを感じていた。

内観法が、ヴィパッサナー瞑想にも合い通じるところがあるのではないか?

フォーラムに参加している方の中にもヴィパッサナー瞑想を経験した方がいるようでした。



それに内観法について、
変な宗教団体のやっていることじゃなかろうかということで、
内観法に関心あり内観フォーラムを参加した親御さんがついてきていた。 ^-^)

実に仲の良い親子じゃないの。
私にはそう思えた。
幸せを実感して生きる。

親の子離れとか、
子の親離れとか。

テレビのワイドショーで懸念している視点もあるが、
十把一絡げにして取り違えてはならないところもあるのですから。



ただフォーラム中の10分間内観というショートセッションで、
驚くほど意識を失って眠ったようになっていた。
なにも、覚えちゃいない。。。

少しずつ下半身の力を強化するトレーニングを始めているので、
力を意図的に振り絞っていく練功十八法的な感じの練習でして。
膝下の使い方が、いまいちわからない。
つかめない。

これがつかめないと、施術の再開ができない。。。ーー;

だからその練習で最近はくたくたな感じで、
眠くて暗くすると意識を失うこのごろでした。 

posted by スズキ at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする