「ふつう、そういうもんだ。」
(個人の常識)は、他人には非常識なことばかりだ。
それはことばの定義付けも、想像力も、そして動き方も。
たとえば、あなたに
「『青い鳥』ときいて、どんな鳥をイメージしますか?」
と問えば、
寓話集で読んだ(しあわせの青い鳥)の絵がでてくるかもしれません。
「じゃ、その青い鳥って、
どのくらいの青色で、
どこの地域の鳥で、
全長・体重・年齢
鳴き方は、
匂いは、
オス?メス?」
そうした質問を受けてもらい、
イメージをはっきり描く手伝いをします。
あたかも具象化された青い鳥が現実にいるような精度で描きだしてもらう。
たとえばの回答は、
・青というより緑に近い色合い
・ニュージーランド産の鳥がどこぞの森に逃げて自生した鳥でセキセイインコっぽい
・全長:16.5cm、体重:85g
・鳴き声は、ぴーくるる、ぴーくるる
・年齢は8歳
・なぜかハムスターに似た匂いがしてきた
・メス
少し戸惑いつつも、
答えるに応じて自分が脳内で感じた青い鳥の映像の輪郭が鮮明になっていくでしょう。
漠然として描いたあやふやさはなくなっていきます。
そこまで描き切れた青い鳥を、
「じゃあ、これから右手の人差し指を差し出してその青い鳥を乗せてみよう。
あなたはどんな気持ちになりますか?
青い鳥はどんな様子でしょうか。」
こうして脳裏に浮かべた記憶から引き出しただけの映像が、
あたかも映画のスクリーンから抜け出したようになる。
リアルに歌を歌い、動きまわり、餌や水をついばむ。
想像した青い鳥が鮮明化する作業をしていただくと、
実際にいる青い鳥を眺めて観察する以上に、
独特な臨場感・質量を持って感覚がそこに入り込みます。
こうした脳裏に描いた像を鮮明化させるときには、
他のものを一切排除し、
そこ一点に意識を集中するモードに入り込みます。
雑念が入り込む余地が消えた瞑想状態と同様な脳波が、
脳波計で計測するとあらわれているといわれています。
安定した脳波状態では実際の体験以上の臨場をします。
こうしたときの状態は催眠に近い脳波があらわれています。
ある種の催眠にかかったといえなくもない、そういった状態です。
つまり上掲した質問をするときの質問する者は、
単なる羅列した質問をただ読み上げるだけではだめで、
催眠療法上でおこなう言葉の誘導をすることが求められます。
そこには、そこそこのテクニックが要求されるわけです。
質問の答えを言葉に出して伝えてもらえれば、
共感し共鳴することができるでしょう。
そこからさらに鮮明さを高める質問を投げかけることもできます。
または恥ずかしがらずにイメージを描き出してもらいたいときは、
言葉に出す必要はなく質問者のこころのなかでメモを取りながら
イメージ像を鮮明化する作業をおこなってもらえばいいでしょう。
観察のテクニックを習得して脳内の映像を描く力が増強されたら、
たとえば過去の記憶も鮮明に思い出せるようになりますし、
脳内にあらわれた創作物が鮮明な輪郭を得て臨場できるようになります。
あやふやな脳内映像が観察で鮮明に思い描く行為を実践した産物として、
運動神経が持つミスリードしっぱなしで轍化したかつての学習の産物も
ときには容易に書き換えることができるといわれています。
せんだってフェルデンクライスメソッドのセミナーに参加させていただき勉強させていただきました。
フェルデンクライスメソッド創始者、モーシェ・フェルデンクライス博士。
彼は確か高度な科学をもちいる技術職でした。
柔道をして身体を壊したがどこの医者にいっても博士が期待する成果がなかった。
そこで彼は医学的な技術から武道の動きなどの動き方に精通なさったのですが、
同時に『催眠療法』を学んだといいます。
催眠状態で起こる身体変化は受け入れられ定着率がいい。
脳(小脳)が身体操作自分なりのやり方を、変更しづらい運動プログラムとして、
決まった手順で考える必要もなく自動的に身体を動作させています。
こうしたオートメーション化された身体動作が定着するには時間がかかるか、
または強烈な印象を持ってそれを受け入れざるを得ない状態下で会得したか。
いずれにせよ、いったん身体操作上の悪癖を含んだ動きを受け入れ定着したら、
それこそ一生懸命になってそれを変更しようとしても非常に困難なものとなる。
なかなかどうして、そこは容易に行動様式は変われないのです。
モーシェ・フェルデンクライス博士は、
そこで催眠療法を学んだ手法をフェルデンクライスメソッドに取り入れました。
脳がなす、自動動作の繰り返しに陥ったところから離れ、
あらたな変化の気づきをえて脳に深く記憶し定着を図りました。
かつて私は上述のような内容の文章を読んだ記憶があります。
脳が、あたかも催眠状態と同じ波形を表すとき、
悪癖を持った身体操作さえオーバーライトが容易にできるようになっていく。
それは新たにより優れた身体操作法を受け入れ定着させやすくなる鍵となる。
これぞ運動療法で身体の恒常的な変化変容をもたらす際には、
この点が取り入れられていけば。
頭がちょっと硬くなって変化を拒むような脳になっても
すんなり動き方が更新できるようになっていくのです。
書き換えの奇跡という巨大な福音を享受できたら最高!
私な本当にそう思えてなりません。
私がフェルデンクライスメソッドってすごいよ〜というのは、
こうした運動神経の親玉である脳の書き換えが大事と主張し、
多くのフェルデンクライス博士の仕事が晩年まで進化し続けていたからです。
2025年07月21日
サブモダリティ誘導をフェルデンクライスメソッドのATMでできないものか。。。思案中でございます
一昨日前にフェルデンクライスメソッドのセミナーを受講してきました。
フェルデンクライスメソッドとは、イスラエルの物理学者モーシェ・フェルデンクライス博士が創始した、身体と意識の学習法です。動きを通して、身体の機能向上や、心身の調和を目指します。(GoogleAiより)
セミナーテーマは『イメージ・動き』。
私が昨今、イメージどう活かすか。イメージとどうかかわればいいか。
そうしたテーマを持っていると見抜いた
フェルデンクライスメソッドを習っているお客様から、
セミナーテーマから私に参考になればと気遣っていただき
参加させていただく運びとなりました。
Iさん、感謝です!
今回取り組みましたものはフェルデンクライス・メソッドにおけるATM。
ATMとは、「Awareness Through Movement(動きを通しての気づき)」の略で、グループで行うレッスン形式のことです。プラクティショナーの言葉による指示に従って、参加者自身が動きを体験し、自身の動きのパターンや感覚に気づくことを目的としています。
私が昨今、イメージについて
NLPでいう【サブモダリティ】に関心があります。
【サブモダリティ】とは、NLP(神経言語プログラミング)における概念で、人が五感を通じて世界を認識する際の、より詳細な感覚要素のことです。
例えば、視覚的なサブモダリティには色、明るさ、大きさなどがあり、聴覚的なサブモダリティには音量、音色、リズムなどがあります。
これらのサブモダリティを変化させることで、感情や記憶、思考パターンに影響を与えることができるとされています。
サブモダリティ。
それにより臨場感たっぷりに思い出す力は、
高度な変革を導き出す叡智として扱えるということでしょう。
で、私は勝手に今回のセミナーテーマから、
<(サブモダリティを駆使した)イメージ・動き>
といった解釈をしていたことに、
セミナー講師が前説をしていただいていたとき気づきました。
ATM中に、なさるわけではありません。
単なる画像としてイメージを思い描くだけではなく、
それをもっとリアルに思い描いてみる。
色、音、動き、その時の状況。
それができたらたとえば感じたことまで。
こころのなかでその映像を再現してみよう。
思い出したことは言葉でいわなくてもいい。
恥ずかしがらずにありのままにね。
・・・思い出しましたか。 OK。
といった印象でしょう。
こうした一手間、二手間をかけることで、
あやふやでしかなかった単なる画像でしかなかったものが、
質量や匂い、輝き、感覚が鮮明に目覚めてきます。
そこによろこびや悲しみや様々な感情が伴えば、
そうした記憶はいつまでも鮮明に残り続けます。
そしてそうした記憶は完成度を高めることもできるのです。
あやふやな画像が見えたような輪郭が不鮮明なイメージは、
貴重な気付きを得られてもものにはなりづらいのです。
要するに脳の短期メモリに記憶されただけで、
長期の記憶に残るほどには記憶に刻まれることはありません。
・・・・・。
つまり、おとなになってから身体の操作法をチェンジするって、
ほんとうに厄介なものです。
何度も何十回も何千回も、
そして何万回も繰り返された姿勢や動作は脳に強烈に強化した書き込まれたものです。
そうなると繰り返された動作は脳の小脳に書き込まれ、
自分ではどう動いているかを意識せずにオートメーションの動きを繰り返します。
ちょっとやそっとの新たな気付きではオーバーライトできずじまい。
またいつもしてきた悪癖を持つ動きに頼り、
身体の歪み、つまり体癖をさらに強化を図り続けてしまう。
変えられるものじゃない。
体癖が無自覚のまま身体の凝りや痛みや張りを製造し続けます。
そうした危険な路を走り続ける動作から離れ、
将来を安心できる王道へ進まれるような試みが
サブモダリティの追求からもたらされるようにしたい。
そうした目途身と期待があります。
------------
そしてここからは完璧な余談ですが、
西ヶ原駅からセミナー会場までの間に
【平塚神社】という神社を偶然見つけました。
後三年の役で源義家が立ち寄り、手厚いもてなしに感じ入り、
義家が自らの鎧をしるしとしてあたえたという話も伝承され由緒正しき神社。
現在は一の鳥居から本殿に続く路に駐車場となっているものの、
澄んだ気のようなものを感じてやまない神社でした。
そして徳川家光が将軍の時代に鍼の検校だった山川城官貞久氏とこ゚縁が深い神社であることがわかりました。
以前、江の島にいったとき、たまたま徳川綱吉将軍の時代に鍼灸の検校であった杉山和一先生を存じ上げることになったのもたまたまでした。
たまたま通りがかった路でしたが、
すばらしい神社と御縁をいただきました。
見知らぬ土地の散歩はたのしいものですよね。
フェルデンクライスメソッドとは、イスラエルの物理学者モーシェ・フェルデンクライス博士が創始した、身体と意識の学習法です。動きを通して、身体の機能向上や、心身の調和を目指します。(GoogleAiより)
セミナーテーマは『イメージ・動き』。
私が昨今、イメージどう活かすか。イメージとどうかかわればいいか。
そうしたテーマを持っていると見抜いた
フェルデンクライスメソッドを習っているお客様から、
セミナーテーマから私に参考になればと気遣っていただき
参加させていただく運びとなりました。
Iさん、感謝です!
今回取り組みましたものはフェルデンクライス・メソッドにおけるATM。
ATMとは、「Awareness Through Movement(動きを通しての気づき)」の略で、グループで行うレッスン形式のことです。プラクティショナーの言葉による指示に従って、参加者自身が動きを体験し、自身の動きのパターンや感覚に気づくことを目的としています。
私が昨今、イメージについて
NLPでいう【サブモダリティ】に関心があります。
【サブモダリティ】とは、NLP(神経言語プログラミング)における概念で、人が五感を通じて世界を認識する際の、より詳細な感覚要素のことです。
例えば、視覚的なサブモダリティには色、明るさ、大きさなどがあり、聴覚的なサブモダリティには音量、音色、リズムなどがあります。
これらのサブモダリティを変化させることで、感情や記憶、思考パターンに影響を与えることができるとされています。
サブモダリティ。
それにより臨場感たっぷりに思い出す力は、
高度な変革を導き出す叡智として扱えるということでしょう。
で、私は勝手に今回のセミナーテーマから、
<(サブモダリティを駆使した)イメージ・動き>
といった解釈をしていたことに、
セミナー講師が前説をしていただいていたとき気づきました。
ATM中に、なさるわけではありません。
単なる画像としてイメージを思い描くだけではなく、
それをもっとリアルに思い描いてみる。
色、音、動き、その時の状況。
それができたらたとえば感じたことまで。
こころのなかでその映像を再現してみよう。
思い出したことは言葉でいわなくてもいい。
恥ずかしがらずにありのままにね。
・・・思い出しましたか。 OK。
といった印象でしょう。
こうした一手間、二手間をかけることで、
あやふやでしかなかった単なる画像でしかなかったものが、
質量や匂い、輝き、感覚が鮮明に目覚めてきます。
そこによろこびや悲しみや様々な感情が伴えば、
そうした記憶はいつまでも鮮明に残り続けます。
そしてそうした記憶は完成度を高めることもできるのです。
あやふやな画像が見えたような輪郭が不鮮明なイメージは、
貴重な気付きを得られてもものにはなりづらいのです。
要するに脳の短期メモリに記憶されただけで、
長期の記憶に残るほどには記憶に刻まれることはありません。
・・・・・。
つまり、おとなになってから身体の操作法をチェンジするって、
ほんとうに厄介なものです。
何度も何十回も何千回も、
そして何万回も繰り返された姿勢や動作は脳に強烈に強化した書き込まれたものです。
そうなると繰り返された動作は脳の小脳に書き込まれ、
自分ではどう動いているかを意識せずにオートメーションの動きを繰り返します。
ちょっとやそっとの新たな気付きではオーバーライトできずじまい。
またいつもしてきた悪癖を持つ動きに頼り、
身体の歪み、つまり体癖をさらに強化を図り続けてしまう。
変えられるものじゃない。
体癖が無自覚のまま身体の凝りや痛みや張りを製造し続けます。
そうした危険な路を走り続ける動作から離れ、
将来を安心できる王道へ進まれるような試みが
サブモダリティの追求からもたらされるようにしたい。
そうした目途身と期待があります。
------------
そしてここからは完璧な余談ですが、
西ヶ原駅からセミナー会場までの間に
【平塚神社】という神社を偶然見つけました。
後三年の役で源義家が立ち寄り、手厚いもてなしに感じ入り、
義家が自らの鎧をしるしとしてあたえたという話も伝承され由緒正しき神社。
現在は一の鳥居から本殿に続く路に駐車場となっているものの、
澄んだ気のようなものを感じてやまない神社でした。
そして徳川家光が将軍の時代に鍼の検校だった山川城官貞久氏とこ゚縁が深い神社であることがわかりました。
以前、江の島にいったとき、たまたま徳川綱吉将軍の時代に鍼灸の検校であった杉山和一先生を存じ上げることになったのもたまたまでした。
たまたま通りがかった路でしたが、
すばらしい神社と御縁をいただきました。
見知らぬ土地の散歩はたのしいものですよね。
2025年06月05日
健康体が爆上がりになるカラダには強くしなやかな構造の加護がある。
ボディワイズ《身体の賢さ》。
私がつたない身体操作方法の知識を
お客様に直接お伝えできるのは一ヶ月を切りました。
お客様に少しでも役立つ身体の賢さを伝え、
体験してほしいというモチベーションがあったのは、
私の日々の勉強の原動力となっていました。
知識の引き出しは多くあるわけじゃありませんから、
お伝えするネタ探しは日々、必死ですから。^^;
で、ここのところ身体操作のちょっとしたコンテンツとして、
腕の操作をお伝えすることがあります。
どういったことをするかというと。
で、
小学校時代の体育で整列をするとき。
《前へ‐ならえ!!》の号令で、両手を前に突き出すのって、
ってやってましたか?
腕の操作方法の施術をする前に、
この《前へ‐ならえ!!》をしていただいて、
前方に突き出されたお客様の手を下に押します。
すると武術や武道の心得があれば、
だいぶんお強くびくともしません。
呼吸も深くリラックスしています。
骨格構造上の強度が高い状態です。
対して、
一般的には《前へ‐ならえ!!》と突き出された手を下に押すと、
身体全体が前方につんのめるように崩れてしまう。
腕は固まり歯を食いしばりつつ、息を止めてます。
骨格構造上の強度が弱いため私がかけた腕への重さに耐えられません。
骨格構造上、強さが増せばカラダは活性・安定します。
この楽チンで爽快な状態を長期に保ち常態化すること。
そこがカラダの芯から改善変化が図られる鍵なのです。
それは手技療法とは違う身体の知恵ですが、
私にはこうした身体操作の知恵は
手技の道と両輪となり活きるものと考えてきました。
施術で筋骨格系の課題解決の補助をさせていただき、
重心の正常化と良質な呼吸と骨格の安定性を高め、
身体操作法がそれを定着させます。
むろん、施術の手が必要がない人もいましょうから、
そうした人々には身体操作の知恵をそのまま身に備えることが容易いでしょう。
-----------------
2025年01月21日
体幹操作には筋肉の末端となる舌の操作もなさるが、肝要。そうした思いがいたしました。
先日、たまたまテレビを観ていたとき、
ドラマ『弱虫ペダルSeason2』(BSスカパー!)の撮影中による自転車事故で脊髄損傷を負った滝川 英治氏のことを知りました。
滝川クリステル氏のいとこにあたる方のようです。
端正な顔立ちが印象的な俳優だった方です。
脊髄損傷を負って病院でのリハビリを終え、
ヘルパーサービスを一部利用した一人暮らし。
(ボッチャの大きなりんごの木)という絵本作家でもあり、
在宅で芸能会社のお仕事もなさっているとのことでした。
そのような滝川氏が絵筆を口にくわえ、
タブレットに絵を描き出すシーンが写ったとき。
相当な集中力を必要とする作業で疲労から顔がゆがむ。
重い頭部を支える首を動かしたり固定させる筋肉や、
同時に絵筆を口でくわえるときの咬筋や側頭筋などの咀嚼筋も酷使されていることでしょう。
滝川氏の『感謝』と書かれた毛筆文字には、
力強い筆使いのあとが見ることができます。
滝川氏の作品制作過程を観ていると、
体幹を巧みに使っておられることに
個人の見解ですが衝撃を受けました。
自身の振る舞える可能性を最大限に研ぎ澄まし、
生長をさせる姿勢にも感銘を受けます。
私も所作で体幹の操作を心がけてますが、
日頃から、利き手、利き足に引きづられ、
いかに体幹操作がなおざりにしてきたか!
そう実感して猛反省。
体幹操作は、どういうものであったのか。
一からやり直す気持ちで再検証していこうと考えています。
また先だってバー・アスティエを習っておられるお客様に、
体幹操作上のコツとして『舌を意識的に使うこと』の大切さについてお伝えいたしました。
中医学では、舌を診て体調を知る舌診という診断法があります。
舌の苔や、色や、乾湿や、ひび割れ方や、形状がむくんでいるか萎えてないか。。。
そうしたことをチェックしていくことでどのような体質であるかを分析いたします。
私の知る食養生を教える大手のスクールでは、ほぼ舌診メインで体調を診るというほど、
多くの貴重な情報が舌には現れるようになっています。
それゆえに日頃から舌の筋肉のコンディションを整えるのが肝要です。
舌の筋肉は多層構造化したミルフィーユ状となり、
その上下左右前後にある舌の筋肉のパーツを緊張や弛緩させることで、
自在運動を叶えられるようになっています。
そして舌は筋肉の末端とされ、筋肉全体を統括するようなポジションともなっています。
たとえば、
舌の全体をぎゅっと痛いほど収縮させて前屈すれば、
日頃より前屈の倒れる量は減るでしょうし、
舌の全体を喉の奥の舌根部分を含めてゆるゆるに緩めながーくして前屈すれば、
日頃より前屈で倒れる量は増すようになっています。
そうだった、そうだった。
体幹操作には、コアの筋肉操作のみではなく、
不二家のぺこちゃんしかり、
舌をお得に匠な操作あってこそ全身の筋肉が統合されやすかったんだった。。。
そのようなことを思い出し、
奇っ怪に受け取られそうですが、大腰筋などのコアの操作をするときには、
舌を意図的に動きに参画させていきましょう。
舌を舌先、舌根、舌の左右真ん中とパーツごとに分解操作が必要で、
舌のパーツを緩めたり、縮めたり、動く先の方向に向けて動きを導いてみたり。
滝川氏の口で絵筆を加えて描いた毛筆文字には、
頭部の動きと同時に舌先をも使われ匠に書かれているのではと感じられまして。
すばらしい姿を見せていただき、感動いたしました。
以下、私がみたテレビ映像ではございませんが、
2年ほど前の滝川氏の映像がありましたのでエンベッドさせていただきました。
ドラマ『弱虫ペダルSeason2』(BSスカパー!)の撮影中による自転車事故で脊髄損傷を負った滝川 英治氏のことを知りました。
滝川クリステル氏のいとこにあたる方のようです。
端正な顔立ちが印象的な俳優だった方です。
脊髄損傷を負って病院でのリハビリを終え、
ヘルパーサービスを一部利用した一人暮らし。
(ボッチャの大きなりんごの木)という絵本作家でもあり、
在宅で芸能会社のお仕事もなさっているとのことでした。
そのような滝川氏が絵筆を口にくわえ、
タブレットに絵を描き出すシーンが写ったとき。
相当な集中力を必要とする作業で疲労から顔がゆがむ。
重い頭部を支える首を動かしたり固定させる筋肉や、
同時に絵筆を口でくわえるときの咬筋や側頭筋などの咀嚼筋も酷使されていることでしょう。
滝川氏の『感謝』と書かれた毛筆文字には、
力強い筆使いのあとが見ることができます。
滝川氏の作品制作過程を観ていると、
体幹を巧みに使っておられることに
個人の見解ですが衝撃を受けました。
自身の振る舞える可能性を最大限に研ぎ澄まし、
生長をさせる姿勢にも感銘を受けます。
私も所作で体幹の操作を心がけてますが、
日頃から、利き手、利き足に引きづられ、
いかに体幹操作がなおざりにしてきたか!
そう実感して猛反省。
体幹操作は、どういうものであったのか。
一からやり直す気持ちで再検証していこうと考えています。
また先だってバー・アスティエを習っておられるお客様に、
体幹操作上のコツとして『舌を意識的に使うこと』の大切さについてお伝えいたしました。
中医学では、舌を診て体調を知る舌診という診断法があります。
舌の苔や、色や、乾湿や、ひび割れ方や、形状がむくんでいるか萎えてないか。。。
そうしたことをチェックしていくことでどのような体質であるかを分析いたします。
私の知る食養生を教える大手のスクールでは、ほぼ舌診メインで体調を診るというほど、
多くの貴重な情報が舌には現れるようになっています。
それゆえに日頃から舌の筋肉のコンディションを整えるのが肝要です。
舌の筋肉は多層構造化したミルフィーユ状となり、
その上下左右前後にある舌の筋肉のパーツを緊張や弛緩させることで、
自在運動を叶えられるようになっています。
そして舌は筋肉の末端とされ、筋肉全体を統括するようなポジションともなっています。
たとえば、
舌の全体をぎゅっと痛いほど収縮させて前屈すれば、
日頃より前屈の倒れる量は減るでしょうし、
舌の全体を喉の奥の舌根部分を含めてゆるゆるに緩めながーくして前屈すれば、
日頃より前屈で倒れる量は増すようになっています。
そうだった、そうだった。
体幹操作には、コアの筋肉操作のみではなく、
不二家のぺこちゃんしかり、
舌をお得に匠な操作あってこそ全身の筋肉が統合されやすかったんだった。。。
そのようなことを思い出し、
奇っ怪に受け取られそうですが、大腰筋などのコアの操作をするときには、
舌を意図的に動きに参画させていきましょう。
舌を舌先、舌根、舌の左右真ん中とパーツごとに分解操作が必要で、
舌のパーツを緩めたり、縮めたり、動く先の方向に向けて動きを導いてみたり。
滝川氏の口で絵筆を加えて描いた毛筆文字には、
頭部の動きと同時に舌先をも使われ匠に書かれているのではと感じられまして。
すばらしい姿を見せていただき、感動いたしました。
以下、私がみたテレビ映像ではございませんが、
2年ほど前の滝川氏の映像がありましたのでエンベッドさせていただきました。
体の使い方自体には正解や不正解はない。TPOに沿ったバリエーションを増やす意識が正解だと考えます
ビジネスコーチングやライフコーチングをするとき。
大きな会場で集合研修でおこなわれる指導は、
現状での改善点がどことどことどこにあって、
だったらそれを改めてくださいと机上の空論、
画一的な価値観を押し付けることになります。
ですが取り組むべき課題の事情は、誰もが異なります。
どれひとつとして同じではないため、画一的な指導では帯に短したすきに長し。
どうもしっくりこなくて、研修で得た知識が活かされることがないのです。
こちらの事情も感情も考えもわからないコーチに【現状を変えなさい】と言われても、
すんなり「そうですね。変えましょう」と言う人は稀でしょう。
いままで自身でも独力でがんばってきたことすべてが否定され、
無駄だと烙印を押されてしまう。
無駄は捨てるよう迫られた気分。
そんな嫌な気持ちになれば「やってられねぇ!!」と拒絶されるのは当たり前です。
だから、ちょっとおかしなことに聞こえるかもしれませんが、
【あなたは現状を絶対に変えてはなりません】というのです。
「えっ?変えなくていいんですか・・・」と虚を突かれ絶句。
変えるのではなく、現状のやり方で得た成果を評価して受け止めてほしいのです。
現状を変えて苦心して得た成果を手放しても、現状変更の進行の最中やそれが企画倒れになったとしたら。
そこには大混乱や、苦情の嵐が吹き荒れるでしょう。
そうなったらいままで得られていた成果さえ
手の指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。
一旦狂い出した歯車は損失を生み出すのです。
だったら現状は現状は現状で大変によくやってきたと受け入れて、
そのうえ足らないものを調べて、
いままでのやり方に足す努力をするほうが安定した成果がでます。
足らないものがどういったものか共に探索し、
どうやってそれを足すのかを共に考えていく。
そうしたコーチングの考えがあるのです。
私が施術の場で、姿勢や歩き方をお伝えするときにも、
上述したような基本理念を活かしていこうと考えます。
だから、決して
それはだめですとか否定的な言葉を投げかけることはいたしません。
私がかつて身体操作上の指導を受けたときに、
こてんぱんにダメ出しとか可哀想なやつだと
槍玉に上がらされたことがありまして。
いやぁ〜、それこそ言われてることはわかるが、
こちらもこれが精いっぱい、
いっぱいいっぱい。
つらいのなんの。。。
そうした人格否定レベルのダメ出しを食らうという経験から、
それを反面教師として受け止めました。
それ以来、お客様に立ち方等のやり方をおつたえするときに、
「色々と姿勢や歩き方にはやり方があって当然で、どれが正解でもありません。
ただ姿勢等のバリエーションを増やしていくことで、
TPOで使い分けができるとうれしいでしょう」
洋服も冬服や夏服があり、礼服やアロハシャツがある。
靴も革靴もあればサンダルもあります。
オバケのQ太郎のようにお決まりのワンパターンじゃすまされません。
時と場所と機会により最適な衣類を選ぶのと同じように、
姿勢や歩き方にもバリエーションがあるのがふさわしい。
そのように考えられるのです。
それぞれの方々の個性的な立ち方や歩き方は、
その人の生きた証であって貴重な履歴書です。
生きてきた履歴書と言える所作に対し礼を失する言い草はできません。
もしも土足で部屋に踏み込むようなことをしたら、
長期に渡る精神的なトラウマとなることでしょう。
それではバリエーションを学び吸収する気にもならず、
成果をお客様と共有することもかなわなくなるのです。
「腰痛の原因になりづらい立ち姿勢はこういうものがあります」と、
私の知る範囲の姿勢をバリエーションとしてお伝えすることに限られます。
大きな会場で集合研修でおこなわれる指導は、
現状での改善点がどことどことどこにあって、
だったらそれを改めてくださいと机上の空論、
画一的な価値観を押し付けることになります。
ですが取り組むべき課題の事情は、誰もが異なります。
どれひとつとして同じではないため、画一的な指導では帯に短したすきに長し。
どうもしっくりこなくて、研修で得た知識が活かされることがないのです。
こちらの事情も感情も考えもわからないコーチに【現状を変えなさい】と言われても、
すんなり「そうですね。変えましょう」と言う人は稀でしょう。
いままで自身でも独力でがんばってきたことすべてが否定され、
無駄だと烙印を押されてしまう。
無駄は捨てるよう迫られた気分。
そんな嫌な気持ちになれば「やってられねぇ!!」と拒絶されるのは当たり前です。
だから、ちょっとおかしなことに聞こえるかもしれませんが、
【あなたは現状を絶対に変えてはなりません】というのです。
「えっ?変えなくていいんですか・・・」と虚を突かれ絶句。
変えるのではなく、現状のやり方で得た成果を評価して受け止めてほしいのです。
現状を変えて苦心して得た成果を手放しても、現状変更の進行の最中やそれが企画倒れになったとしたら。
そこには大混乱や、苦情の嵐が吹き荒れるでしょう。
そうなったらいままで得られていた成果さえ
手の指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。
一旦狂い出した歯車は損失を生み出すのです。
だったら現状は現状は現状で大変によくやってきたと受け入れて、
そのうえ足らないものを調べて、
いままでのやり方に足す努力をするほうが安定した成果がでます。
足らないものがどういったものか共に探索し、
どうやってそれを足すのかを共に考えていく。
そうしたコーチングの考えがあるのです。
私が施術の場で、姿勢や歩き方をお伝えするときにも、
上述したような基本理念を活かしていこうと考えます。
だから、決して
それはだめですとか否定的な言葉を投げかけることはいたしません。
私がかつて身体操作上の指導を受けたときに、
こてんぱんにダメ出しとか可哀想なやつだと
槍玉に上がらされたことがありまして。
いやぁ〜、それこそ言われてることはわかるが、
こちらもこれが精いっぱい、
いっぱいいっぱい。
つらいのなんの。。。
そうした人格否定レベルのダメ出しを食らうという経験から、
それを反面教師として受け止めました。
それ以来、お客様に立ち方等のやり方をおつたえするときに、
「色々と姿勢や歩き方にはやり方があって当然で、どれが正解でもありません。
ただ姿勢等のバリエーションを増やしていくことで、
TPOで使い分けができるとうれしいでしょう」
洋服も冬服や夏服があり、礼服やアロハシャツがある。
靴も革靴もあればサンダルもあります。
オバケのQ太郎のようにお決まりのワンパターンじゃすまされません。
時と場所と機会により最適な衣類を選ぶのと同じように、
姿勢や歩き方にもバリエーションがあるのがふさわしい。
そのように考えられるのです。
それぞれの方々の個性的な立ち方や歩き方は、
その人の生きた証であって貴重な履歴書です。
生きてきた履歴書と言える所作に対し礼を失する言い草はできません。
もしも土足で部屋に踏み込むようなことをしたら、
長期に渡る精神的なトラウマとなることでしょう。
それではバリエーションを学び吸収する気にもならず、
成果をお客様と共有することもかなわなくなるのです。
「腰痛の原因になりづらい立ち姿勢はこういうものがあります」と、
私の知る範囲の姿勢をバリエーションとしてお伝えすることに限られます。
2024年09月07日
鎖骨の凝りがあれば、すなわち手がうまく使えてない証拠なんです。。。
みなさま、今日は東京、また暑い日となりましたね。
私の知り合いが、いきなり高熱で休養をとることとなりました。
中国の五行説では、木・火・土・金・水が代表的ですが、様々な事象を五つに分類し性状をとらえて理解する考え方があります。
日本の季節は四季にわかれ、春・夏・秋・冬ですが、
春や秋は過ごしやすい時期ですが、夏や冬は厳しい環境下で耐えて生きるときです。
五行思想では、夏にもうちょっと変わった長夏が加わり、春・夏・長夏・秋・冬となります。
夏の厳しい暑さが過ぎてホッとした頃に、夏で獲たダメージの蓄積が秋にどっと負債を支払うごとき風邪をひくことで体に休養を与えて休めようとします。
そのようなことがありますが、今年の夏や長夏はあまりに暑すぎたため、秋になり休養を得ようとして体が風邪をひいて休みたいという人も増えているのではないでしょうか。
皆様も体調管理でつらい発熱をなさらないよう気をつけてくださいね。
話が変わりますが、
手に不調を背負う方がおられます。
器質的に問題があるというわけではなく、
使い方にミスがあることに気づかれずに使い続けたうえでの不調です。
テニス肘、腱鞘炎、五十肩から指先や肩や手首等のしびれや痛みなどその他、様々、
使い方に問題があるようなら手に不調感がでてまいります。
私どもの方では長時間にわたる指導をさせていただくまでの講習会を開く時間的余裕がありません。
ですから基本の基の前段階で知っておいてほしいこととして、
伸筋と屈筋の別や腱を使おう等のわかりやすいところをお客様の様子をみてお伝えします。
ですがもともと手の使い方の癖は、肩甲骨、鎖骨が静止させて肘や前腕を動かそうとしておられる。
そうした使い方をすれば、必ず不調になるんです。。。
鎖骨、肩甲骨、上腕骨、前腕骨の順で動かすべきところを、
鎖骨と肩甲骨をフリーズさせるどころか強固に引き上げつつ固めて前腕ばかりを使う。
そのようにしていれば鎖骨に凝りがこびりつくわけです。
たとえば鎖骨を停止させたまま腕を使う癖がすごい方の場合、
鎖骨の上を通る広頚筋という筋肉が鎖骨に癒着するのです。
そうした癒着が進むことでさらに鎖骨が使い勝手が悪くなり、
そこを使いたいという気にはならなくなってしまう。
それは鎖骨の上にある広頚筋が癒着したと同時に、
鎖骨下の鎖骨下筋も鎖骨と肋骨の付着点間で癒着して動けなくされているため、
動かそうとする気配がなくなっていくのです。
そのようなときに鎖骨部分のそれらの癒着を触られたら、強い痛みを感じてしまう。
この時点で、手がうまく使えない使い手となってしまい肩こりや手の痛み等が出る。
手の使い方の基礎ができていて理想のままであれば、鎖骨をゴシゴシされても無痛ですし、
なんかすっきりした気持ちよさを感じるだけなんです。
そのことを忘れずに自分が得た手の不調を感じて、どのようなパターンで動かしていれば不調になるか、
他の不調と言っている人たちの様子を観察してください。
そして手の使い方の基礎ができている鎖骨の凝りがない人の様子を具体的に観察してください。
そこを自分で観察する気持ちがある人は、必ずや改善が図られる人たちです。
その差異を認められたぶんだけ、使い方の再学習ができるようになってきます。
チャットGTP などで、使い方のノウハウがサクサク語ってもらえるかもしれない時代です。
ですがわかったつもり程度の意識変化では、すでに何十年もの間、何百回、何千回、何万回繰り返された慣れ親しんだ癖ある手の使い方を手放せるほど、人間は革新的な脳を持ち合わせてはいません。
先生からノウハウを得て研究の指針とすることはおすすめできることですが、
それもしょせん、他人の浅知恵と思ってください。
自分の身体について徹底して深い理解ができるのは自分だけですから。
先生も、今現在の自分自身が必要とした研究成果を部分披露しているだけに過ぎません。
私がいうことも、そういった類のことです。
自分自身で、まずは答えを拙速に得なくてもいいというスタンスで思考と観察を深めていきましょう。
そうしていく段階で、ポツッとひとこと言葉が出ると思います。
「あぁ、あの使い方してたら肩も壊れるもんだな。。。」と。
なんだかバカバカしいことを至極丁寧に三度三度繰り返して傷つけてたかなったんだ、
自らを傷つけるなんて、そんなことをするのはまっぴらごめん。
そんな気持ちがふつふつ湧いてきたとき、癖が一つ手放せます。
ただ癖って一つきりではなく、多数ありますし、それぞれ個性的で、自分しかないくせもあるし。
そういったものを一つずつ、丁寧に取り除くことができた分だけ、自由と快適さを手に入れるのです。
そうやってトラブルが起きた理由が腑に落ちたとき、
人ははじめて今まで保守的に繰り返し続けた手の使い方の癖を捨ててくれるでしょう。
ちなみに、足の使い方も手の使い方同様に癖が入り込んでいて、
腕では鎖骨が凝りのトラブルがでるように、足では鼠径部に凝りがはびこりますので。
鼠径部にトラブルのような凝りがあるときは、もっと足の使い方を改善できる余地があるということを表しています。
私の知り合いが、いきなり高熱で休養をとることとなりました。
中国の五行説では、木・火・土・金・水が代表的ですが、様々な事象を五つに分類し性状をとらえて理解する考え方があります。
日本の季節は四季にわかれ、春・夏・秋・冬ですが、
春や秋は過ごしやすい時期ですが、夏や冬は厳しい環境下で耐えて生きるときです。
五行思想では、夏にもうちょっと変わった長夏が加わり、春・夏・長夏・秋・冬となります。
夏の厳しい暑さが過ぎてホッとした頃に、夏で獲たダメージの蓄積が秋にどっと負債を支払うごとき風邪をひくことで体に休養を与えて休めようとします。
そのようなことがありますが、今年の夏や長夏はあまりに暑すぎたため、秋になり休養を得ようとして体が風邪をひいて休みたいという人も増えているのではないでしょうか。
皆様も体調管理でつらい発熱をなさらないよう気をつけてくださいね。
話が変わりますが、
手に不調を背負う方がおられます。
器質的に問題があるというわけではなく、
使い方にミスがあることに気づかれずに使い続けたうえでの不調です。
テニス肘、腱鞘炎、五十肩から指先や肩や手首等のしびれや痛みなどその他、様々、
使い方に問題があるようなら手に不調感がでてまいります。
私どもの方では長時間にわたる指導をさせていただくまでの講習会を開く時間的余裕がありません。
ですから基本の基の前段階で知っておいてほしいこととして、
伸筋と屈筋の別や腱を使おう等のわかりやすいところをお客様の様子をみてお伝えします。
ですがもともと手の使い方の癖は、肩甲骨、鎖骨が静止させて肘や前腕を動かそうとしておられる。
そうした使い方をすれば、必ず不調になるんです。。。
鎖骨、肩甲骨、上腕骨、前腕骨の順で動かすべきところを、
鎖骨と肩甲骨をフリーズさせるどころか強固に引き上げつつ固めて前腕ばかりを使う。
そのようにしていれば鎖骨に凝りがこびりつくわけです。
たとえば鎖骨を停止させたまま腕を使う癖がすごい方の場合、
鎖骨の上を通る広頚筋という筋肉が鎖骨に癒着するのです。
そうした癒着が進むことでさらに鎖骨が使い勝手が悪くなり、
そこを使いたいという気にはならなくなってしまう。
それは鎖骨の上にある広頚筋が癒着したと同時に、
鎖骨下の鎖骨下筋も鎖骨と肋骨の付着点間で癒着して動けなくされているため、
動かそうとする気配がなくなっていくのです。
そのようなときに鎖骨部分のそれらの癒着を触られたら、強い痛みを感じてしまう。
この時点で、手がうまく使えない使い手となってしまい肩こりや手の痛み等が出る。
手の使い方の基礎ができていて理想のままであれば、鎖骨をゴシゴシされても無痛ですし、
なんかすっきりした気持ちよさを感じるだけなんです。
そのことを忘れずに自分が得た手の不調を感じて、どのようなパターンで動かしていれば不調になるか、
他の不調と言っている人たちの様子を観察してください。
そして手の使い方の基礎ができている鎖骨の凝りがない人の様子を具体的に観察してください。
そこを自分で観察する気持ちがある人は、必ずや改善が図られる人たちです。
その差異を認められたぶんだけ、使い方の再学習ができるようになってきます。
チャットGTP などで、使い方のノウハウがサクサク語ってもらえるかもしれない時代です。
ですがわかったつもり程度の意識変化では、すでに何十年もの間、何百回、何千回、何万回繰り返された慣れ親しんだ癖ある手の使い方を手放せるほど、人間は革新的な脳を持ち合わせてはいません。
先生からノウハウを得て研究の指針とすることはおすすめできることですが、
それもしょせん、他人の浅知恵と思ってください。
自分の身体について徹底して深い理解ができるのは自分だけですから。
先生も、今現在の自分自身が必要とした研究成果を部分披露しているだけに過ぎません。
私がいうことも、そういった類のことです。
自分自身で、まずは答えを拙速に得なくてもいいというスタンスで思考と観察を深めていきましょう。
そうしていく段階で、ポツッとひとこと言葉が出ると思います。
「あぁ、あの使い方してたら肩も壊れるもんだな。。。」と。
なんだかバカバカしいことを至極丁寧に三度三度繰り返して傷つけてたかなったんだ、
自らを傷つけるなんて、そんなことをするのはまっぴらごめん。
そんな気持ちがふつふつ湧いてきたとき、癖が一つ手放せます。
ただ癖って一つきりではなく、多数ありますし、それぞれ個性的で、自分しかないくせもあるし。
そういったものを一つずつ、丁寧に取り除くことができた分だけ、自由と快適さを手に入れるのです。
そうやってトラブルが起きた理由が腑に落ちたとき、
人ははじめて今まで保守的に繰り返し続けた手の使い方の癖を捨ててくれるでしょう。
ちなみに、足の使い方も手の使い方同様に癖が入り込んでいて、
腕では鎖骨が凝りのトラブルがでるように、足では鼠径部に凝りがはびこりますので。
鼠径部にトラブルのような凝りがあるときは、もっと足の使い方を改善できる余地があるということを表しています。
2024年08月21日
重力の中で動いたり、働いたりしていると、僕達の身体の機能は前へと引っ張られる傾向がある
人は重力の中で動いたり、働いたりしていると、
身体の機能は前へと引っ張られる傾向が出てきます。
たとえば長時間のデスクワーク中は、
自身の前や斜め前にあるパソコンに向かいます。
重い荷物を胸に抱えたり手に下げて運ぶときも、
自分の前側に重力を感じて働いております。
新聞を見るときも本を読むときもそうです。
私達の活動の大半は身体の前側で作業をおこない、
前へと引っ張られていく沼にはまりやすいのです。
すると気づかないうちに、
身体の前面が萎縮して凝りだしたため背中が丸まりだしていく。
(猫背、巻き肩)となりつづけてしまうのです。
だから施術による重要な改善点は、
ピサの斜塔化した倒壊傾向を含んだ身体をまっすぐ垂直に立つようにすること。
前へ引っ張られた身体を、
施術で後ろへと引っ張り戻すことが大事だといわれることもありますが、
自身の身体が前傾した状態が楽に感じて手放そうとできなくなった人に対し、
まっすぐ垂直に立つ経験をしていただいて、自分でどうしたいかを感じてもらう。
・呼吸はどう変わったか。
・足裏の重心はどこに落ちたか。
・目が捉える風景はどう変わったか。
・肩、首、腕や腰などには緊張の変化はあったか。
・そしてまっすぐな姿の自分と猫背巻き肩の自分の画像をみて、どう感じたか。
それらを含め快適か不快かを感じ取りましょう。
不快なままでいいわけがなく、
快適な身体で過ごしたかったと欲していく。
快適になる自由が与えられていたことに気づくこと。
またはそういった自由を自分の身体に認めてあげること。
そうした姿勢、センスが磨かれたならば、
身体は自然に癒しへと向かうでしょう。
各人が自分の身体の声を聞いて、
その声にしたがっていく。
そういった聞く力を取り戻していきましょう。
そこに気づけば生きる実感が増して、その光明を受け取った結果、自然治癒も始動します。
身体の機能は前へと引っ張られる傾向が出てきます。
たとえば長時間のデスクワーク中は、
自身の前や斜め前にあるパソコンに向かいます。
重い荷物を胸に抱えたり手に下げて運ぶときも、
自分の前側に重力を感じて働いております。
新聞を見るときも本を読むときもそうです。
私達の活動の大半は身体の前側で作業をおこない、
前へと引っ張られていく沼にはまりやすいのです。
すると気づかないうちに、
身体の前面が萎縮して凝りだしたため背中が丸まりだしていく。
(猫背、巻き肩)となりつづけてしまうのです。
だから施術による重要な改善点は、
ピサの斜塔化した倒壊傾向を含んだ身体をまっすぐ垂直に立つようにすること。
前へ引っ張られた身体を、
施術で後ろへと引っ張り戻すことが大事だといわれることもありますが、
自身の身体が前傾した状態が楽に感じて手放そうとできなくなった人に対し、
まっすぐ垂直に立つ経験をしていただいて、自分でどうしたいかを感じてもらう。
・呼吸はどう変わったか。
・足裏の重心はどこに落ちたか。
・目が捉える風景はどう変わったか。
・肩、首、腕や腰などには緊張の変化はあったか。
・そしてまっすぐな姿の自分と猫背巻き肩の自分の画像をみて、どう感じたか。
それらを含め快適か不快かを感じ取りましょう。
不快なままでいいわけがなく、
快適な身体で過ごしたかったと欲していく。
快適になる自由が与えられていたことに気づくこと。
またはそういった自由を自分の身体に認めてあげること。
そうした姿勢、センスが磨かれたならば、
身体は自然に癒しへと向かうでしょう。
各人が自分の身体の声を聞いて、
その声にしたがっていく。
そういった聞く力を取り戻していきましょう。
そこに気づけば生きる実感が増して、その光明を受け取った結果、自然治癒も始動します。
2024年07月15日
ゆたかな身体を手に入れるには
自動車はドライバーの運転により、すぐに壊れもしますし、長く快適に乗ることもできます。
できたら長く快適に運転できるようなドライバーとなるドライビングテクニック。
きっちり学ぶ機会を得て、思う存分、ドライブしてみませんか?
それは人体の操縦者として、快適に活用し続ける姿と似ていることでしょう。
話が本題へ。
トレガーアプローチに、確か去年年末辺りか、関心を持ったことがあった。
それはハンモックを使いつつトレガーアプローチをしてみたら、どう?
そうした着想がひらめいてのこと。
そこの情熱はすでに冷めたものの、
当時、トレガーアプローチのファシリテーターさんに連絡をいれて、
セッションを受けられればとお願いしたいが男性は無理という返答。
そこで実際のセッションを受けることもなく、
後に何かございましたら、ということになり。
そうしたところ、数日前のこと。
トレガーアプローチのワークショップ(体験会)の開催を、
メールで連絡をしていただきました。
日程的には8月18日という日曜日だったため仕事の営業日。
それで参加を迷うところでしたが、
あたらしい体験知を受け取る時期と信じて参加申し込みしました。
私達は型通りのパターン化された動き方を持っています。
誰かに動き方を教わったわけではない。
でもなんとなく動けているから、
よしとしようというモードです。
(フェーズ1)としましょう。
特徴として、
無理・無駄・ムラある不合理な動き方でゴリゴリやってのける。
身体の中に凝りを作る人達の100%はそんな癖に翻弄され、
気づかないうちに、身体を壊して固めだした。
後天的に得た凝りの正体の過半数はこれです。
フェーズ1で起きることは、
外的要因により得た怪我ではなくて、
内的要因により作り出したトラブルです。
不合理な負担を強いる動作や所作、姿勢から得た身体トラブルは、
永遠にそれを変えるまで同じことを繰り返します。
内的要因で身体を壊してたと失敗に気づいたなら、
それを辞めてください。
ただし辞めるには代替え品を用意すべきでしょう。
そこまでを(フェーズ2)としましょう。
たとえば、
歩くと脚腰が痛くなる方がいたとします。
今までの歩き方のパターンを検証します。
そこから改善点を得て、ポイントを絞った変更の手を加えます。
歩く動作なんか不要で歩けなくていいのだというわけじゃない。
これが(フェーズ2A)としましょうか。
そのステップが更に大胆に推し進めれば、
原因論的な問題点の検証をしていく過程で、
さらにいびつな歩き方が誇張されるものと考え。
すっぱり、今までの歩き方を封印して、
まっさらな白紙の赤ちゃん脳に戻って、
良質な歩き方をひたすら観察させます。
観察して情報量が十分集まったあとに、
それを真似た動きをトライしてみます。
これを(フェーズ2B)としましょうね。
ただし(フェーズ2)では、
手本となるサンプルを目利き力で選べる程度で変わります。
目利き力が不十分なうちは
〈こっちの水は美味しいぞ、あっちの水はまずいぞ〉と、
不十分な知見を持ったもののいいなりになり混乱するでしょう。
そのようなときに、
3年かけてとか5年かけて探し求めた立派な師匠がいてくれたら、
いかに危機を回避して成長を約束してくれるでしょう。
(フェーズ2A)は、やがてやり尽くしてしまえば頭打ちするもので、
いつかは(フェーズ2B)へと歩みを進めなければなりません。
しっかり基礎を積んだうえで自然界を澄んだ眼で見れるか。
そういったセンスがあるかどうかなんでしょう。
(フェーズ1)にいる人は運動神経バツグンの人を除きビジター、
ビジターとは、自分の身体の操作に注意を向ける習慣は少なくて、
注意を向けても誰かに言われてしぶしぶ。
運動改善に興味関心が薄く主体性が欠けます。
ハードルを低く下げた運動注意を与えることが大切です。
ハードルが高ければ反発心が起こり、関係性をくじくからです。
(フェーズ2A)か(フェーズ2B)にいる人はカスタマイズした
行動を促進させるカスタマーと呼ばれるでしょう。
カスタマーでは、多少ハードルが高い無茶振りをされても、
いい刺激と捉えて成長の糧として取り組んでくれます。
ビジターから、そうそうカスタマーへと姿勢が変われれば上々。
ビジターにステイしている人よりもカスタマーにいる人のほうが、
施術を受けた上での変化に開きがあらわれてきます。
豊かな身体を手に入れるには、
(フェーズ2)以上へ常にとどまり、
身体を育て続けて刷新を受け入れる柔軟な姿勢が鍵となります。
最後に、
友人から頂戴いたしました月刊秘伝6月号の表紙の室伏広治氏。
筋骨隆々で端正な顔立ちです。
割れやすい紙風船を両手で挟んで、
腰部あたりでひねりを加えた空気を使った「全身トレ」中の姿です。
(フェーズ2B)の自身の脳を白紙にして
新たな絵を描く赤ちゃん脳の持ち主って、
こんなタイプの人なんだろうなと感じます。
できたら長く快適に運転できるようなドライバーとなるドライビングテクニック。
きっちり学ぶ機会を得て、思う存分、ドライブしてみませんか?
それは人体の操縦者として、快適に活用し続ける姿と似ていることでしょう。
話が本題へ。
トレガーアプローチに、確か去年年末辺りか、関心を持ったことがあった。
それはハンモックを使いつつトレガーアプローチをしてみたら、どう?
そうした着想がひらめいてのこと。
そこの情熱はすでに冷めたものの、
当時、トレガーアプローチのファシリテーターさんに連絡をいれて、
セッションを受けられればとお願いしたいが男性は無理という返答。
そこで実際のセッションを受けることもなく、
後に何かございましたら、ということになり。
そうしたところ、数日前のこと。
トレガーアプローチのワークショップ(体験会)の開催を、
メールで連絡をしていただきました。
日程的には8月18日という日曜日だったため仕事の営業日。
それで参加を迷うところでしたが、
あたらしい体験知を受け取る時期と信じて参加申し込みしました。
私達は型通りのパターン化された動き方を持っています。
誰かに動き方を教わったわけではない。
でもなんとなく動けているから、
よしとしようというモードです。
(フェーズ1)としましょう。
特徴として、
無理・無駄・ムラある不合理な動き方でゴリゴリやってのける。
身体の中に凝りを作る人達の100%はそんな癖に翻弄され、
気づかないうちに、身体を壊して固めだした。
後天的に得た凝りの正体の過半数はこれです。
フェーズ1で起きることは、
外的要因により得た怪我ではなくて、
内的要因により作り出したトラブルです。
不合理な負担を強いる動作や所作、姿勢から得た身体トラブルは、
永遠にそれを変えるまで同じことを繰り返します。
内的要因で身体を壊してたと失敗に気づいたなら、
それを辞めてください。
ただし辞めるには代替え品を用意すべきでしょう。
そこまでを(フェーズ2)としましょう。
たとえば、
歩くと脚腰が痛くなる方がいたとします。
今までの歩き方のパターンを検証します。
そこから改善点を得て、ポイントを絞った変更の手を加えます。
歩く動作なんか不要で歩けなくていいのだというわけじゃない。
これが(フェーズ2A)としましょうか。
そのステップが更に大胆に推し進めれば、
原因論的な問題点の検証をしていく過程で、
さらにいびつな歩き方が誇張されるものと考え。
すっぱり、今までの歩き方を封印して、
まっさらな白紙の赤ちゃん脳に戻って、
良質な歩き方をひたすら観察させます。
観察して情報量が十分集まったあとに、
それを真似た動きをトライしてみます。
これを(フェーズ2B)としましょうね。
ただし(フェーズ2)では、
手本となるサンプルを目利き力で選べる程度で変わります。
目利き力が不十分なうちは
〈こっちの水は美味しいぞ、あっちの水はまずいぞ〉と、
不十分な知見を持ったもののいいなりになり混乱するでしょう。
そのようなときに、
3年かけてとか5年かけて探し求めた立派な師匠がいてくれたら、
いかに危機を回避して成長を約束してくれるでしょう。
(フェーズ2A)は、やがてやり尽くしてしまえば頭打ちするもので、
いつかは(フェーズ2B)へと歩みを進めなければなりません。
しっかり基礎を積んだうえで自然界を澄んだ眼で見れるか。
そういったセンスがあるかどうかなんでしょう。
(フェーズ1)にいる人は運動神経バツグンの人を除きビジター、
ビジターとは、自分の身体の操作に注意を向ける習慣は少なくて、
注意を向けても誰かに言われてしぶしぶ。
運動改善に興味関心が薄く主体性が欠けます。
ハードルを低く下げた運動注意を与えることが大切です。
ハードルが高ければ反発心が起こり、関係性をくじくからです。
(フェーズ2A)か(フェーズ2B)にいる人はカスタマイズした
行動を促進させるカスタマーと呼ばれるでしょう。
カスタマーでは、多少ハードルが高い無茶振りをされても、
いい刺激と捉えて成長の糧として取り組んでくれます。
ビジターから、そうそうカスタマーへと姿勢が変われれば上々。
ビジターにステイしている人よりもカスタマーにいる人のほうが、
施術を受けた上での変化に開きがあらわれてきます。
豊かな身体を手に入れるには、
(フェーズ2)以上へ常にとどまり、
身体を育て続けて刷新を受け入れる柔軟な姿勢が鍵となります。
最後に、
友人から頂戴いたしました月刊秘伝6月号の表紙の室伏広治氏。
筋骨隆々で端正な顔立ちです。
割れやすい紙風船を両手で挟んで、
腰部あたりでひねりを加えた空気を使った「全身トレ」中の姿です。
(フェーズ2B)の自身の脳を白紙にして
新たな絵を描く赤ちゃん脳の持ち主って、
こんなタイプの人なんだろうなと感じます。
2024年07月14日
小手先の動きから脱せるよう、先師は『あなたがそこは自分で研究し、発見、習得せよ』と微笑んでいるのでしょう。
『〈小手先の動き〉じゃダメだ、ダメだ!!』
私はそう、一括され続けてきた。
体幹を活用して操作しようと模索したが、
うまくはいかなかった
研究から多少の向上は日々起こるのだが、
根本的なところが抜けていることがある。
体幹から操作する達人の動きを映像や実際に見れば、
自分が見当違いのままであることは明らかです。
たとえば、私はかつて呉氏八極拳の呉連枝老師の映像をみるや、
動きの完成度に驚きほれ込んで、DVDやVCDを中国書店ですべて購入。
時間があれば、しょっちゅうそれら映像を繰り返し視聴していました。
一度、呉連枝老師の講習会へ見学で足を運んだことがあります。
連綿とした身体操作をかなえる緻密かつ大胆にも繊細にも変化する所作。
実際に目の当たりにしたショックで、意識朦朧としながら帰宅しました。
これは20年ほど前のことです。
呉連枝老師の巨大な腕っぷしで、
信じられない爆発力を持って人を吹き飛ばす力も出す。
同時に私にさらさらさらっと筆で色紙を書いてくれたときの
細やかで流々とした筆さばきで見事な字句が綴ることができる。
小手先じゃないから、そうした両面を自在に操ることができる。
そうした呉連枝老師の姿を実際に目の当たりにすることができ、
ほんとうにそれが幸運でした。
『どうやったら小手先の動きから脱することができるのだろうか?』
いまも研究しています。
体感的に小手先の動作と体幹よりおきた動作の違いに気づくことがあります。
小手先の動作で施術をするときには手元がやっぱり気になってるんですよね。
そして体幹を忘れている。
胴体と手の主従関係を取り違えている。
非力感が否めないなか、より力をグイッっと発揮させたいとき。
手先の感覚は失われ呼吸が止まります。
さほど思ったほどの力がだせてません。
この状態で無理な力をお客様にかければ、
悲惨なことになりますから、
そこは自分の力量を判断しながら制御する必要がでてまいります。
当然、パフォーマンスは落ちます。
対して小手先の動作を離れ、理想の操作で施術ができるうようになるとき。
体幹の胸の中心の一点を上下左右前後と安定させる状態を得る。
この一点をわずかに操り、大胆にも繊細にも変化可能に動ける。
手先の柔らかさや緻密な操作、足の運び、腰部の回転が自動制御されだす。
すると小手先の動作ではかなわなかったリリースができてくる。
その感覚は、未熟なものの、なんとなくつかめました。
胸の中心部に設置した一点を精度を高めれば、
バランスを管理しつつわずかにそこを動かせば動作は起きる。
無念無想で物理的な正確さを極めたバランスに注意を向ける。
そうした精度が高まれば高まるほど、そこをほんのわずかに操作すれば、
さらに小手先の動きから遠くなっていく。
それがかなうと米粒に墨絵を描けるほど、
繊細な身体操作までかなえられるようだ。
私の身体内部の感じでは、
ギヤがある自転車を乗るような感じで、
操作上の必要に応じて
ギヤをローに入れたり
ハイに入れて操ることができる。
いま、私の施術が以前より衝撃や負担が少なくリリースが飛躍したのは
小手先の操作から抜けるヒントを得られたことが大きいのです。
施術技術の向上もありますが、年々高度な技術に取り組むこともあるし、
身体操作が向上したところから生み出される施術技術が7割方ですから。
小手先の操作をするしかない者が、
自身の身体理解の限界があります。
そこで発想する手技しかできていなかったが、
『小手先の操作を抜けたあとのお客様の動きは、
本来はこうあるべきだから、そこへ送り届けよう』
そうした視線でお客様の身体を観察して改善点を発見し、
解決方法をチョイスして状態改善の道へと送り届けます。
小手先を使わないというための体幹からの操作が大事だ、
これはいろんな教則動画等を観て語られるも、
実直にそれをしたつもりがどうしてもしっくりこなかった。
だから先師たちは後進者に対し、
『あなたがそこは自分で研究し、発見、習得せよ』とする。
そうした課題を解く楽しみを残してくれたのだと思います。
2024年07月13日
素の状態を知るトレーニングに禅、それともDAISOで買ってきた水平器を使う?
私の両親の墓は香取神宮から歩いて50分ほどの場にあるため、
墓参りのときは必ず香取神宮に参拝し、
香取神宮奥宮から目と鼻の先にある
天真正伝香取神道流の創始者 飯篠家直のお墓参りもするようにしております。
天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)は、
室町時代中期に飯篠家直によって創始された武術流儀です。
武神として名高い経津主神を祀る香取神宮の近くに道場を構え、
かつて武勇を競う武芸者が手合わせを願い訪れたといいます。
当時の手合わせは、命を失う、身体が切り刻まれて半身不随。
それが当たり前にあったのですが、飯篠家直は戦わずして勝つ工夫をしていました。
生い茂る熊笹の上にゴザを敷きます。
普通、熊笹が茂っているとは言え人の重さが乗ればどうなるでしょう。
なだれ込むようにゴザごと地面に叩きつけられること必定。
それを軽々と飯篠家直は座して微動だにせず。
訪れた武者修行をする武芸者は一瞬にして常人ならざるものと悟り、
手合わせをせずに帰ったといいます。
まさに飯篠家直が理想とした【兵法とは、平和の法なり】を、
自ら圧倒した力を見せ、戦わずして勝つ兵法を良しとしました。
「真実の武道は人の心にあり、人の道である。
心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。
したがって自分自身を完成された人間に近づける努力をしなければならない」
と門人たちに諭し、心身鍛練の術として武士から庶民まで広く教えたとされます。
ただ飯篠家直が不思議な能力を持つ得体のしれないものだから
手合わせを願うものが引いたというのは拙速です。
ただ、こんなのはできるはずがないから作り話だというのも、
自己の既成概念でしかモノが見れない自覚がない者です。
だってそこの熊笹の密生の度合いや、飯篠家直の体重や、
その他多くの様子を存じ上げもせず断言するのは乱暴です。
それでは思い込みがぽっと口に出るタイプの人の証明です。^^
身体の前後のバランス、左右のバランス(水平軸)、上下のバランス(垂直軸)を
極限まで歪曲化した癖を捨てて精妙にあわせられたならば、
小手先での技の繰り出しをする必要もなくなります。
バランスが絶妙に取れた状態のところから、
そのバランスを意図的に操作して動作するときのみ、
まとまりある運動操作がなされます。
これを私は勝手に(素の状態)に還るといってます。
無為に動作すればタフで強靭な、遺伝子が準備した通りの身体力が発揮されます。
身体バランスが精巧に整えられたポジションを筋肉や靭帯、骨格で得られた場合、
自動的に身体は中心部から動きを筋肉を連動連鎖させる形で働き出します。
動きの流れを止めず、呼吸もすこぶる健やかなまま、意のままに身体が操れます。
それが(素の状態)です。
実際に外部から素の状態に近くなるような筋骨格の位置を操作して、
そのものへと動作をさせたとき。
格段なる力が内に秘められていたことに驚かれるでしょう。
別段、無理に筋肉のリミッターを外して身体を壊さなくても、
普通に超人的な力がサクサク繰り出せるでしょう。
後年、剣禅一致の精神として、剣を振るときに禅の修行を並行して行ってきました。
勝海舟が若かりしとき。
本所から王子神社まで歩いて通い、
日々、深夜剣をふるい禅を組む行をしていました。
晩年の勝海舟は『かつて私はそうしていたから身体の丈夫さが続いたんだよ』
といっておられました。
素の状態は肉体の癖やこころの思い込みや精神の壁をなくしていこうとする修行のようなものです。
禅で肉体が素の状態の精度を上げるようにするセンスを最大限に発揮させることと、
それを下地に剣を振ることで物理的な変化をモニターしていく。
そして素の状態をさらに磨き深めていく。
月に数度、洗足池にある勝海舟の墓前で手を合わせるとき、
勝先生はそんなことをなさっていたと、かってながら夢想している次第です。
ただ、私が禅をしても、もともとの体癖によって崩れたものが大量です。
禅をしても、素の状態を取り戻す感覚にはなかなか至りません。
なので、DAISOで買ってきた気泡が入った水平器(水平、垂直、前後がわかる)を工夫して使い、
自分の骨格の位置のズレを丁寧に補正等を試みています。

この体の正確な軸を取り戻すトレーニングは非常に地味な作業です。
ですがこのトレーニングをしてから施術をすると、
施術成果が倍になって跳ね上がります。
これも単純な施術に見えても真似がしづらい秘密のひとつなんです。
稀代の剣聖として名を馳せた飯篠家直に手合わせを申し出た武芸者。
彼らはみすみす切られ役を演じたいわけではなく、
しっかりと修行を積んできたツワモノです。
それゆえ素の状態に至るときの快感を知り、
自分にはそこの段にはまだ先がはるか向こうにあるとわかっていた。
武芸者も立派なもので、真の凄さがわかった。
先に達したと直感するパフォーマンスをした飯篠家直が現れたから、
恐れ入りましたと引くことも恥ではないと退散したのでしょう。
個人的にボディワークにてお客様に対し願うところは、
お客様が素の状態を探索、探求するおもしろさやたのしさに気づく援助がしたい。
手技ではお客様の内部にできた素の状態を遠ざける不必要な状態を改善していく。
そういった素の状態があるのかなぁと興味を持っていただき、
ならば自力で素の状態を高めると同時に、
ちょっと時短を目論んで施術を活用してみようかという方が増えるというのもうれしいですね〜
墓参りのときは必ず香取神宮に参拝し、
香取神宮奥宮から目と鼻の先にある
天真正伝香取神道流の創始者 飯篠家直のお墓参りもするようにしております。
天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)は、
室町時代中期に飯篠家直によって創始された武術流儀です。
武神として名高い経津主神を祀る香取神宮の近くに道場を構え、
かつて武勇を競う武芸者が手合わせを願い訪れたといいます。
当時の手合わせは、命を失う、身体が切り刻まれて半身不随。
それが当たり前にあったのですが、飯篠家直は戦わずして勝つ工夫をしていました。
生い茂る熊笹の上にゴザを敷きます。
普通、熊笹が茂っているとは言え人の重さが乗ればどうなるでしょう。
なだれ込むようにゴザごと地面に叩きつけられること必定。
それを軽々と飯篠家直は座して微動だにせず。
訪れた武者修行をする武芸者は一瞬にして常人ならざるものと悟り、
手合わせをせずに帰ったといいます。
まさに飯篠家直が理想とした【兵法とは、平和の法なり】を、
自ら圧倒した力を見せ、戦わずして勝つ兵法を良しとしました。
「真実の武道は人の心にあり、人の道である。
心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。
したがって自分自身を完成された人間に近づける努力をしなければならない」
と門人たちに諭し、心身鍛練の術として武士から庶民まで広く教えたとされます。
ただ飯篠家直が不思議な能力を持つ得体のしれないものだから
手合わせを願うものが引いたというのは拙速です。
ただ、こんなのはできるはずがないから作り話だというのも、
自己の既成概念でしかモノが見れない自覚がない者です。
だってそこの熊笹の密生の度合いや、飯篠家直の体重や、
その他多くの様子を存じ上げもせず断言するのは乱暴です。
それでは思い込みがぽっと口に出るタイプの人の証明です。^^
身体の前後のバランス、左右のバランス(水平軸)、上下のバランス(垂直軸)を
極限まで歪曲化した癖を捨てて精妙にあわせられたならば、
小手先での技の繰り出しをする必要もなくなります。
バランスが絶妙に取れた状態のところから、
そのバランスを意図的に操作して動作するときのみ、
まとまりある運動操作がなされます。
これを私は勝手に(素の状態)に還るといってます。
無為に動作すればタフで強靭な、遺伝子が準備した通りの身体力が発揮されます。
身体バランスが精巧に整えられたポジションを筋肉や靭帯、骨格で得られた場合、
自動的に身体は中心部から動きを筋肉を連動連鎖させる形で働き出します。
動きの流れを止めず、呼吸もすこぶる健やかなまま、意のままに身体が操れます。
それが(素の状態)です。
実際に外部から素の状態に近くなるような筋骨格の位置を操作して、
そのものへと動作をさせたとき。
格段なる力が内に秘められていたことに驚かれるでしょう。
別段、無理に筋肉のリミッターを外して身体を壊さなくても、
普通に超人的な力がサクサク繰り出せるでしょう。
後年、剣禅一致の精神として、剣を振るときに禅の修行を並行して行ってきました。
勝海舟が若かりしとき。
本所から王子神社まで歩いて通い、
日々、深夜剣をふるい禅を組む行をしていました。
晩年の勝海舟は『かつて私はそうしていたから身体の丈夫さが続いたんだよ』
といっておられました。
素の状態は肉体の癖やこころの思い込みや精神の壁をなくしていこうとする修行のようなものです。
禅で肉体が素の状態の精度を上げるようにするセンスを最大限に発揮させることと、
それを下地に剣を振ることで物理的な変化をモニターしていく。
そして素の状態をさらに磨き深めていく。
月に数度、洗足池にある勝海舟の墓前で手を合わせるとき、
勝先生はそんなことをなさっていたと、かってながら夢想している次第です。
ただ、私が禅をしても、もともとの体癖によって崩れたものが大量です。
禅をしても、素の状態を取り戻す感覚にはなかなか至りません。
なので、DAISOで買ってきた気泡が入った水平器(水平、垂直、前後がわかる)を工夫して使い、
自分の骨格の位置のズレを丁寧に補正等を試みています。
この体の正確な軸を取り戻すトレーニングは非常に地味な作業です。
ですがこのトレーニングをしてから施術をすると、
施術成果が倍になって跳ね上がります。
これも単純な施術に見えても真似がしづらい秘密のひとつなんです。
稀代の剣聖として名を馳せた飯篠家直に手合わせを申し出た武芸者。
彼らはみすみす切られ役を演じたいわけではなく、
しっかりと修行を積んできたツワモノです。
それゆえ素の状態に至るときの快感を知り、
自分にはそこの段にはまだ先がはるか向こうにあるとわかっていた。
武芸者も立派なもので、真の凄さがわかった。
先に達したと直感するパフォーマンスをした飯篠家直が現れたから、
恐れ入りましたと引くことも恥ではないと退散したのでしょう。
個人的にボディワークにてお客様に対し願うところは、
お客様が素の状態を探索、探求するおもしろさやたのしさに気づく援助がしたい。
手技ではお客様の内部にできた素の状態を遠ざける不必要な状態を改善していく。
そういった素の状態があるのかなぁと興味を持っていただき、
ならば自力で素の状態を高めると同時に、
ちょっと時短を目論んで施術を活用してみようかという方が増えるというのもうれしいですね〜
2024年04月29日
身体移動操作のひとつの原始的なカタチから、二足歩行を見て学ぶこと
ボルダリング映像のサムネイル画像をご覧いただくと、
右側体側が縮められ右の手足が近づき、
左側体側は伸ばされて左の手足は離れています。
https://www.youtube.com/live/wn0x6-GywWA?si=LmBd1bXKEA4SaNu9
このような手足の出し方は、
赤ちゃんがはいはいしはじめたころの所作と似ています。
胴体の体側の一方を縮め一方を伸ばすことで、
スムースに手足に長い距離を与えて移動するやり方です。
自然に脚の体幹部にある大腰筋と腕の体幹部にある広背筋が活用でき、
胴から離れた手足は脱力して身体を地面との接触するつなぎとして使います。
昨日のお客様が山登りをしていて、ときに膝が痛むと申されていました。
山登りにも、基本、このような身体操作で行えば、タフでいて重心を一定にして登る助けにもなります。
膝の痛みがおきる場合、腸脛靭帯や外側広筋、大腿直筋などばかりを過剰に使っておられ、
大腰筋が活性しておりません。
大腰筋が働き出すような骨盤、腸骨操作がなされれば、
自然に大腿部の大腿直筋のような膝痛につながる屈筋群を過度に使い負荷を貯めることもなくなります。
二足歩行でもこのようなボルダリングでおこなわれる身体操作を活かすことができますが、
そうするにはいくつか発想の転換が必要なような気がいたします。
胸骨の操作、そして頭部の位置や目線の方向など、
そして脚や腕の重みを振り子にして利用するなど。
できるようになると、
体幹部の操作にこそ身体の移動にかかる力の源があることに気づかれるでしょう。
ぜひ、歩き方の研究をなさっておられる方は、
いろいろ試していただいて、
なにかおもしろい歩法を見つけられましたらコメント欄でお教えくださいませ。
どうかよろしくお願いします。
2024年04月23日
赤ちゃんのような(はいはい)を、まじめに修練中です
嫌な言い方ですが、
武蔵小山のアーケードを歩いていると、
街を歩けば歪みが誇張されて苦しまれているご高齢の方がおられます。
対して素敵な姿勢の高齢者かどうか疑わしい方も。
その違いはどこから?
たとえば
膀胱経と腎経を活かした身体を立てるためのグラウディング操作が
高齢前に叶えられる。
そうなるかどうかで、その後の健康上の明暗が分かれていきます。
高齢化は体内の骨や筋肉組織等を構成するコラーゲン生成力が
最高のときから比べて半分にも満たない状態に誰もがなります。
そうなったとき、体内に作り出した凝りも消えていきます。
高齢化が進みコラーゲン生成力が極限に落ちる手前に、
この膀胱経と腎経を活かしたグラウディングが身についた人は、
体内をコリで支えてくれていた部材さえも高齢化すると取り除かれ、
身体の拘束感が消滅して楽な姿勢に磨きがかかります。
合気道をなさる師範が、高齢となり格段に技が極まるのはこのためです。
対して身につかなかった人は、
身体の歪みがいっきに誇張される臨界点を迎えることとなります。。。
この二手の隔たりは、
人生を締めくくるまでの生活に開きをもたらすでしょう。
そうしたことで、私もそこは他人事じゃない。
必死に良質なグラウディングがかなうための謎解きをしております。
腎経と膀胱経の姿勢動作上の機能作用を体感的に理解するためには?
そういった視点で思考してみて。
最近、ひとりでシンプルな運動として、
赤ちゃんが四つん這いで動くときの
「はいはい」の練習をしています。
『いいおじさんがすることじゃない!!』
とおっしゃられるかもしれませんが、
私どもの身体は今も四脚操作に影響を受けているのです。
独自に身体操作を研究し続けた
フェルデンクライス・メソッドの創始者なども
動作研究のときに取り入れています。
他には四脚状態で人体を描くイラストで正経十二経絡を表現する絵をみると、
すんなり膀胱経と腎経の経絡線の走行から期待される機能が理解できます。
何をすればいいかの結論で、
理想的な「はいはい」ができれば、
膀胱経と腎経の本来の機能が取り戻せると仮説してトレーニングです。
真面目に5分もはいはいしてみると、
いきなり大腰筋が強くなった感じがしてきます。
はいはい自体が最良な大腰筋トレーニングになるんですね。
同時に施術をするときの力もスムースに
芯に届く圧が取り出せるようになりました。
他には全体的に筋肉のパワーが3割増になったかと。
それは以前は凝っていた部分が、
自動的に筋膜の癒着が剥がれて笑えるくらいゆるゆるに。
緩んだ筋肉は大きな収縮力を発揮できるので筋パワーが
いっきに増したというわけです。
(筋膜の凝りが急激に緩みだす背景に、
血液を凝り部分へあてがって溶かすことを優先し、
体全体の血流ルートが変わって眠くてだるい状態になります。
これは回復時の生理的反応ですから、
こういうときはジタバタせずに休めるだけ休むのが吉です)
ただ(膀胱経と腎経の筋肉の連鎖ライン)が張りが強烈で苦痛。
そうなった理由は、
本来は腎経も膀胱経も伸びやかに姿勢を正し立たせる機能をもつ経絡。
ですがそうした立位姿勢を正すこと以外に、
こともあろうか(身体を移動させるために使っていた←誤用動作)から
そうした誤用を終始気づかずしていたしっぺ返しです。
(はいはい)は、二足直立歩行をしたときに不都合がなければ、
しっぺ返しを体感することはないというリトマス試験紙となります。
こうした苦痛が消えた動きにはいはいができるように磨かれてから、
ようやく二足直立の理想形が表現できるしくみです。
脳内では今まで通り膀胱経と腎経を身体の移動に用いようとするが、
四脚状態ではそれは誤用であっての何者でもないと知らしめようと
膀胱経づたいの背中と腎経の脚部内側づたいを張らせつらく不快に。
そうやって、
この経絡の使い方を誤用してますよ、
という警報を鳴らしてくれています。
そうした誤用をしていることがわかっていても、
膀胱経と腎経という地面に両足をしっかり設置して
立派に骨を立てて支えるよう伸びやかな操作ができません。
これぞ、50年以上もの長年の誤用のなせる悪癖です。
やっちゃだめとわかっているのに、
無意識に動き出すと悪癖動作に持っていかれてしまう。
最近、お客様にエクササイズとして(はいはい)を勧めております。
でも私自身、ぜがひにでも、
自分なりの納得できるはいはいの正解の型にたどり着きたい。
太極拳の套路を練るような気持ちで取り組んでおります。
武蔵小山のアーケードを歩いていると、
街を歩けば歪みが誇張されて苦しまれているご高齢の方がおられます。
対して素敵な姿勢の高齢者かどうか疑わしい方も。
その違いはどこから?
たとえば
膀胱経と腎経を活かした身体を立てるためのグラウディング操作が
高齢前に叶えられる。
そうなるかどうかで、その後の健康上の明暗が分かれていきます。
高齢化は体内の骨や筋肉組織等を構成するコラーゲン生成力が
最高のときから比べて半分にも満たない状態に誰もがなります。
そうなったとき、体内に作り出した凝りも消えていきます。
高齢化が進みコラーゲン生成力が極限に落ちる手前に、
この膀胱経と腎経を活かしたグラウディングが身についた人は、
体内をコリで支えてくれていた部材さえも高齢化すると取り除かれ、
身体の拘束感が消滅して楽な姿勢に磨きがかかります。
合気道をなさる師範が、高齢となり格段に技が極まるのはこのためです。
対して身につかなかった人は、
身体の歪みがいっきに誇張される臨界点を迎えることとなります。。。
この二手の隔たりは、
人生を締めくくるまでの生活に開きをもたらすでしょう。
そうしたことで、私もそこは他人事じゃない。
必死に良質なグラウディングがかなうための謎解きをしております。
腎経と膀胱経の姿勢動作上の機能作用を体感的に理解するためには?
そういった視点で思考してみて。
最近、ひとりでシンプルな運動として、
赤ちゃんが四つん這いで動くときの
「はいはい」の練習をしています。
『いいおじさんがすることじゃない!!』
とおっしゃられるかもしれませんが、
私どもの身体は今も四脚操作に影響を受けているのです。
独自に身体操作を研究し続けた
フェルデンクライス・メソッドの創始者なども
動作研究のときに取り入れています。
他には四脚状態で人体を描くイラストで正経十二経絡を表現する絵をみると、
すんなり膀胱経と腎経の経絡線の走行から期待される機能が理解できます。
何をすればいいかの結論で、
理想的な「はいはい」ができれば、
膀胱経と腎経の本来の機能が取り戻せると仮説してトレーニングです。
真面目に5分もはいはいしてみると、
いきなり大腰筋が強くなった感じがしてきます。
はいはい自体が最良な大腰筋トレーニングになるんですね。
同時に施術をするときの力もスムースに
芯に届く圧が取り出せるようになりました。
他には全体的に筋肉のパワーが3割増になったかと。
それは以前は凝っていた部分が、
自動的に筋膜の癒着が剥がれて笑えるくらいゆるゆるに。
緩んだ筋肉は大きな収縮力を発揮できるので筋パワーが
いっきに増したというわけです。
(筋膜の凝りが急激に緩みだす背景に、
血液を凝り部分へあてがって溶かすことを優先し、
体全体の血流ルートが変わって眠くてだるい状態になります。
これは回復時の生理的反応ですから、
こういうときはジタバタせずに休めるだけ休むのが吉です)
ただ(膀胱経と腎経の筋肉の連鎖ライン)が張りが強烈で苦痛。
そうなった理由は、
本来は腎経も膀胱経も伸びやかに姿勢を正し立たせる機能をもつ経絡。
ですがそうした立位姿勢を正すこと以外に、
こともあろうか(身体を移動させるために使っていた←誤用動作)から
そうした誤用を終始気づかずしていたしっぺ返しです。
(はいはい)は、二足直立歩行をしたときに不都合がなければ、
しっぺ返しを体感することはないというリトマス試験紙となります。
こうした苦痛が消えた動きにはいはいができるように磨かれてから、
ようやく二足直立の理想形が表現できるしくみです。
脳内では今まで通り膀胱経と腎経を身体の移動に用いようとするが、
四脚状態ではそれは誤用であっての何者でもないと知らしめようと
膀胱経づたいの背中と腎経の脚部内側づたいを張らせつらく不快に。
そうやって、
この経絡の使い方を誤用してますよ、
という警報を鳴らしてくれています。
そうした誤用をしていることがわかっていても、
膀胱経と腎経という地面に両足をしっかり設置して
立派に骨を立てて支えるよう伸びやかな操作ができません。
これぞ、50年以上もの長年の誤用のなせる悪癖です。
やっちゃだめとわかっているのに、
無意識に動き出すと悪癖動作に持っていかれてしまう。
最近、お客様にエクササイズとして(はいはい)を勧めております。
でも私自身、ぜがひにでも、
自分なりの納得できるはいはいの正解の型にたどり着きたい。
太極拳の套路を練るような気持ちで取り組んでおります。
2023年11月06日
ピアニストの普段姿勢って、どうよ?!
昨日、お客様から興味深い話をお伺いしました。
昨今、体が整えられてきたためか街を歩く人の姿勢が良いか悪いかが明瞭に目に飛び込んできます!とのこと。
自分に身体の歪みがあるときには気づかなくても、
自分の体幹がしなやかさが増す過程で、
他者の歪みが違和感に感じ気になりだすことがあります。
これって本能的な作用のようですが、
身体操作の大切さに気を配る多くの方がそのような報告をしていただけています。
そしてそのお客様がおっしゃられるには、
お客様;「藤田真央さんというピアニスト、ご存知ですか?」
私;「いいえ、存じ上げておりませんで・・・」
お客様;「若手で世界に通用している有望なピアニスト。
すばらしい演奏。。
でもピアニストにありがちな上半身の姿勢なのよ」
そうお伺いして、
藤田真央さんとはどのような演奏をなさるか、
興味を持ったと同時にどんな姿勢でピアノの演奏をしているのかな?
そこでYouTubeで藤田真央さんの演奏をチェックしてみました。
お客様がおっしゃられたことが見て取れました。
すばらしい演奏に感動です!!
https://youtu.be/qyS25LpY1mw?si=-D-Hk-rxkYKvrO0I
演奏中の藤田真央さんの上半身の絵は、
ピアノ奏者らしい姿勢ですね〜。
演奏用に進化し順応した姿勢です。
ですがお客様がするどい視線を配って気づかれたように、
日々のケアを怠れば健康上のつらい目にあうリスクが含まれているようです。
藤田真央さんのコンサートに足を運んで演奏を聞かれたそうですが、
もし対面してサインをもらえるような機会があれば、
「ちょっとあなた、普段の姿勢は気をつけなさいよ」と無意識にいっちゃわれそうですね。👍
まじめに職業病って、のちのちしんどくなるんです。
私の知り合いのお客様でもあるピアニストの方も、
首や胸がしんどーいといって身体の使い方を伝える技術を学びに
ムーブメント系のボディワークにも通っておられます。
昨今、体が整えられてきたためか街を歩く人の姿勢が良いか悪いかが明瞭に目に飛び込んできます!とのこと。
自分に身体の歪みがあるときには気づかなくても、
自分の体幹がしなやかさが増す過程で、
他者の歪みが違和感に感じ気になりだすことがあります。
これって本能的な作用のようですが、
身体操作の大切さに気を配る多くの方がそのような報告をしていただけています。
そしてそのお客様がおっしゃられるには、
お客様;「藤田真央さんというピアニスト、ご存知ですか?」
私;「いいえ、存じ上げておりませんで・・・」
お客様;「若手で世界に通用している有望なピアニスト。
すばらしい演奏。。
でもピアニストにありがちな上半身の姿勢なのよ」
そうお伺いして、
藤田真央さんとはどのような演奏をなさるか、
興味を持ったと同時にどんな姿勢でピアノの演奏をしているのかな?
そこでYouTubeで藤田真央さんの演奏をチェックしてみました。
お客様がおっしゃられたことが見て取れました。
すばらしい演奏に感動です!!
https://youtu.be/qyS25LpY1mw?si=-D-Hk-rxkYKvrO0I
演奏中の藤田真央さんの上半身の絵は、
ピアノ奏者らしい姿勢ですね〜。
演奏用に進化し順応した姿勢です。
ですがお客様がするどい視線を配って気づかれたように、
日々のケアを怠れば健康上のつらい目にあうリスクが含まれているようです。
藤田真央さんのコンサートに足を運んで演奏を聞かれたそうですが、
もし対面してサインをもらえるような機会があれば、
「ちょっとあなた、普段の姿勢は気をつけなさいよ」と無意識にいっちゃわれそうですね。👍
まじめに職業病って、のちのちしんどくなるんです。
私の知り合いのお客様でもあるピアニストの方も、
首や胸がしんどーいといって身体の使い方を伝える技術を学びに
ムーブメント系のボディワークにも通っておられます。
2023年07月27日
強烈な肩こりや首こりになりたくないなら、またはすっきりしたデコルテラインが描き出したいなら【烏口腕筋】の使い手になろう!
最近、『烏口腕筋』という筋肉の用法について考えています。

烏口腕筋は、『上腕の屈曲と内旋をする機能をもつ筋肉』。
そのように【動きの解剖学】という本に解説してあります。
この解説だけでは、『ふーん、そうなんだ。』くらいのことで、読み飛ばすのがおちです。
ただこちらの使い方を熟知して獲得できるようになると次のような利便性が挙げられます。
・肩こりや首コリに圧倒的になりづらくなる
・肩が上がりっぱなしになって左右の肩の高さが差がでる
・腕力が途端に強力発揮できるようになる
などなど。
文章で烏口腕筋の詳細な用法を誤解なく伝えることは困難なため、
そこは割愛させて頂きたいと思いますが、
いま、こちらへお通いいただいているお客様に、
理解していただく必要を感じた方には実地でお伝えしているところです。
烏口腕筋の用法、これを知って私が施術をするようになってから、
施術の効きが段違いに発揮できるようになりました。
それは1,8キログラムのメディスンボールが、
空気しか入っていない軽さのゴムマリのような軽さの感覚で
扱えるようにできたおかげなんです。
三角筋や上腕二頭筋・上腕三頭筋などを使って腕を使うような従来の腕の使い方なら、
このボールを手玉に取ることはありえないといえるでしょう。
つまり三角筋を使って腕を操作したら、患者様の芯に影響を与えることなく、
身体の表層を削り取るだけでの弱々しい影響しか与えられていません。
残念ながら、そういう手技をしている人が多くいますし、
そうした操作が普通すぎて手技の失敗をしていることさえ気づかずに施術をしています。
申し訳ないことですが、それは私もその烏口腕筋の存在はもちろん知っていたものの、
その筋肉の素性や用法が腑に落ちたレベルで理解し応用できる前は、
そのような施術もどきに終止していたことでありました。
それで三角筋前部を酷使すれば呼吸が浅くなって肩や腰や首のコリがひどくなり身を滅ぼすので、
施術が立て込むとスマーティのような遠赤外線ドーム型サウナで徹底して熱を身体に注ぎ込んで
凝り固まった疲労蓄積した筋肉をリセットしなければやっていけませんでした。。。
それが烏口腕筋を使えだしたあとは、コリがゼロかといえばそうではありませんが、
以前の数十倍の運動エネルギーを発揮しているのにこれだけで済んでいるんだということが驚きなのです。
腰仙関節部のリリースレベルが段違いでよくなったため、
腰部の詰まりが大きく結跏趺坐での瞑想が困難さを持っていた友人の施術をしたあとで、
彼からのメール。
『施術を受けてから今までにないほど腰がいい感じだ』という趣旨の内容でした。
基本的に率直さが頼もしい友人で、
酷評を送ることも厭わない友人からの改善の知らせ。
短い変化を伝えた彼の一文は、私にとってなによりの勇気づけになりました。
ただし30〜40キロ級の大胆な力をどーんと発揮できるがゆえに、
強大な私の中のエネルギー消費量となったがために体重が激減。
そこは新たな課題解決が求められるところです。
おそらくは肩甲骨周りの筋群が育ってきたとき、
このような身体にとって感じられる不利益が消えるような気がしています。
呉連枝老師という八極拳の先生の肩甲骨周りを観ていてそう感じています。
ちなみに私がそちらの有用性に気づき見つけ出したわけじゃありません。
それはすでに合気道の技として用いられてきたもののようで、
そちらを学ぶ機会をいただいたおかげです。
烏口腕筋は、『上腕の屈曲と内旋をする機能をもつ筋肉』。
そのように【動きの解剖学】という本に解説してあります。
この解説だけでは、『ふーん、そうなんだ。』くらいのことで、読み飛ばすのがおちです。
ただこちらの使い方を熟知して獲得できるようになると次のような利便性が挙げられます。
・肩こりや首コリに圧倒的になりづらくなる
・肩が上がりっぱなしになって左右の肩の高さが差がでる
・腕力が途端に強力発揮できるようになる
などなど。
文章で烏口腕筋の詳細な用法を誤解なく伝えることは困難なため、
そこは割愛させて頂きたいと思いますが、
いま、こちらへお通いいただいているお客様に、
理解していただく必要を感じた方には実地でお伝えしているところです。
烏口腕筋の用法、これを知って私が施術をするようになってから、
施術の効きが段違いに発揮できるようになりました。
それは1,8キログラムのメディスンボールが、
空気しか入っていない軽さのゴムマリのような軽さの感覚で
扱えるようにできたおかげなんです。
三角筋や上腕二頭筋・上腕三頭筋などを使って腕を使うような従来の腕の使い方なら、
このボールを手玉に取ることはありえないといえるでしょう。
つまり三角筋を使って腕を操作したら、患者様の芯に影響を与えることなく、
身体の表層を削り取るだけでの弱々しい影響しか与えられていません。
残念ながら、そういう手技をしている人が多くいますし、
そうした操作が普通すぎて手技の失敗をしていることさえ気づかずに施術をしています。
申し訳ないことですが、それは私もその烏口腕筋の存在はもちろん知っていたものの、
その筋肉の素性や用法が腑に落ちたレベルで理解し応用できる前は、
そのような施術もどきに終止していたことでありました。
それで三角筋前部を酷使すれば呼吸が浅くなって肩や腰や首のコリがひどくなり身を滅ぼすので、
施術が立て込むとスマーティのような遠赤外線ドーム型サウナで徹底して熱を身体に注ぎ込んで
凝り固まった疲労蓄積した筋肉をリセットしなければやっていけませんでした。。。
それが烏口腕筋を使えだしたあとは、コリがゼロかといえばそうではありませんが、
以前の数十倍の運動エネルギーを発揮しているのにこれだけで済んでいるんだということが驚きなのです。
腰仙関節部のリリースレベルが段違いでよくなったため、
腰部の詰まりが大きく結跏趺坐での瞑想が困難さを持っていた友人の施術をしたあとで、
彼からのメール。
『施術を受けてから今までにないほど腰がいい感じだ』という趣旨の内容でした。
基本的に率直さが頼もしい友人で、
酷評を送ることも厭わない友人からの改善の知らせ。
短い変化を伝えた彼の一文は、私にとってなによりの勇気づけになりました。
ただし30〜40キロ級の大胆な力をどーんと発揮できるがゆえに、
強大な私の中のエネルギー消費量となったがために体重が激減。
そこは新たな課題解決が求められるところです。
おそらくは肩甲骨周りの筋群が育ってきたとき、
このような身体にとって感じられる不利益が消えるような気がしています。
呉連枝老師という八極拳の先生の肩甲骨周りを観ていてそう感じています。
ちなみに私がそちらの有用性に気づき見つけ出したわけじゃありません。
それはすでに合気道の技として用いられてきたもののようで、
そちらを学ぶ機会をいただいたおかげです。
2023年04月19日
『支えの法で歩く動作』と『地面を踏みつける動作』の違いを考察
『支えの法で歩く動作』と『地面を踏みつける動作』の違いを考察
■ 合理的な歩く動作では、地面『支えの法で歩く動作』と『地面を踏みつける動作』の違いを考察上に足裏を添えおき、接触面に支えてもらう。
脚部上端の組織を大腰筋を持って動作させることで、
そこより下に位置する骨盤の腸骨や臀部も、ふとももや大腿骨、ふくらはぎや脛骨腓骨、そして足部は、
あたかも大腰筋上端から吊り下げられ、振り子のように後ろから前に振り出していきます。
地面に足裏を接した点を支点にもちいて、胴より上の支えを脚の骨や腱などで支えにしています。
■ 地面を踏みつける動作は、地面の上にある物体を足で踏みつぶそうとしている。
対して腸骨と大腿骨の接合する股関節から脚だとしておれば、
膝を持ち上げ下げるという大腿直筋等の筋強縮を繰り返す動作を繰り返します。
地面の上にはなにもないのに、
あたかも麦穂踏みをするかのような動作を歩行に利用します。
そうする必要性は見当たらない。
バタついた歩行音が聞こえてくるのも特徴のひとつです。
もともと大腿直筋など脚部の前側の筋肉は、膝をどちらに向けるかという方向指示の役をもつ筋です。
その筋が筋強縮して方向をしめすための感度が悪化する問題が出てしまうのも問題です。
古来、能楽の練習法のひとつに、
板敷きの広間に水に濡らした破けやすくした半紙を敷き詰め、
その上を歩くとう独特な修練の確認法があるといいます。
足裏を濡れた半紙の上に置くときも足裏が離れるときも、
微塵でも踏み込んだり蹴り込んだりすれば半紙はもろくも破れます。
『支えの法で歩く動作』をなせば、この練習法を自然体でクリアできます。
『地面を踏みつける動作』をなせば、
半紙がいつ破れるかヒヤヒヤしながらの移動にとどまります。
後者の大腿部にある大腿直筋等の筋強縮動作をする限り美しい姿で動作がしづらいでしょう。
海外の方には、なーんにも考えることなく『支えの法で歩く動作』、つまり大腰筋が歩行時に用いることができている人がたんとおられるのです。
ですが日本の私たちには、『地面を踏みつける動作』が普通の歩き方だと刷り込まれております。
そのことに気づいて健康上の負の遺産といえる負担ばかり与える誤用した歩き方に憤ります。
『地面を踏みつける動作』という不利益を被る歩き方を手放せば、
それだけでも整体院にいく費用捻出が極端に低減できるでしょう。
ただ残念ながら仙腸関節部分や股関節周り、大腿直筋深部や鼠径部の癒着などが強ければ、
『支えの法で歩く動作』にすんなり移行することは難しい。
今までの癖の強い歩き方に似て非なる原理で動くため、
そうした使ってほしい筋肉は使われてなくて弱化しているし、
いままで歩行時に作り上げた筋への負担によりコリができたところが、
正常な歩き方をさせるための邪魔をします。
すると、こんな歩き方は変だ!!と強く感じてしまうため、
大人までずっと『地面を踏みつける動作』で歩き続けた方が、
歩き方の大変革を起こすことは容易ではないようです。
ただ。。。
日本にいると『地面を踏みつける動作』で歩く人が大多数ですが、
他国ではあまり見ることができない圧倒的な少数派です。
だったらすでに大腰筋を使って歩くのが普通な『支えの法で歩く動作』が習得できている人を
じっくり肌感覚の距離で感じ取れるような体験ができてくるなら。。。
徐々に自分から『支えの法で歩く動作』にも一定の価値を感じ、違和感も拭えてくるのでしょう。
幼児が親の動作を観て、その動き方を学習するという見習うといった身体操作法の習得もあります。
さっこん、そういうのも賢いやり方でいいなと思ったこの頃です。
■ 合理的な歩く動作では、地面『支えの法で歩く動作』と『地面を踏みつける動作』の違いを考察上に足裏を添えおき、接触面に支えてもらう。
脚部上端の組織を大腰筋を持って動作させることで、
そこより下に位置する骨盤の腸骨や臀部も、ふとももや大腿骨、ふくらはぎや脛骨腓骨、そして足部は、
あたかも大腰筋上端から吊り下げられ、振り子のように後ろから前に振り出していきます。
地面に足裏を接した点を支点にもちいて、胴より上の支えを脚の骨や腱などで支えにしています。
■ 地面を踏みつける動作は、地面の上にある物体を足で踏みつぶそうとしている。
対して腸骨と大腿骨の接合する股関節から脚だとしておれば、
膝を持ち上げ下げるという大腿直筋等の筋強縮を繰り返す動作を繰り返します。
地面の上にはなにもないのに、
あたかも麦穂踏みをするかのような動作を歩行に利用します。
そうする必要性は見当たらない。
バタついた歩行音が聞こえてくるのも特徴のひとつです。
もともと大腿直筋など脚部の前側の筋肉は、膝をどちらに向けるかという方向指示の役をもつ筋です。
その筋が筋強縮して方向をしめすための感度が悪化する問題が出てしまうのも問題です。
古来、能楽の練習法のひとつに、
板敷きの広間に水に濡らした破けやすくした半紙を敷き詰め、
その上を歩くとう独特な修練の確認法があるといいます。
足裏を濡れた半紙の上に置くときも足裏が離れるときも、
微塵でも踏み込んだり蹴り込んだりすれば半紙はもろくも破れます。
『支えの法で歩く動作』をなせば、この練習法を自然体でクリアできます。
『地面を踏みつける動作』をなせば、
半紙がいつ破れるかヒヤヒヤしながらの移動にとどまります。
後者の大腿部にある大腿直筋等の筋強縮動作をする限り美しい姿で動作がしづらいでしょう。
海外の方には、なーんにも考えることなく『支えの法で歩く動作』、つまり大腰筋が歩行時に用いることができている人がたんとおられるのです。
ですが日本の私たちには、『地面を踏みつける動作』が普通の歩き方だと刷り込まれております。
そのことに気づいて健康上の負の遺産といえる負担ばかり与える誤用した歩き方に憤ります。
『地面を踏みつける動作』という不利益を被る歩き方を手放せば、
それだけでも整体院にいく費用捻出が極端に低減できるでしょう。
ただ残念ながら仙腸関節部分や股関節周り、大腿直筋深部や鼠径部の癒着などが強ければ、
『支えの法で歩く動作』にすんなり移行することは難しい。
今までの癖の強い歩き方に似て非なる原理で動くため、
そうした使ってほしい筋肉は使われてなくて弱化しているし、
いままで歩行時に作り上げた筋への負担によりコリができたところが、
正常な歩き方をさせるための邪魔をします。
すると、こんな歩き方は変だ!!と強く感じてしまうため、
大人までずっと『地面を踏みつける動作』で歩き続けた方が、
歩き方の大変革を起こすことは容易ではないようです。
ただ。。。
日本にいると『地面を踏みつける動作』で歩く人が大多数ですが、
他国ではあまり見ることができない圧倒的な少数派です。
だったらすでに大腰筋を使って歩くのが普通な『支えの法で歩く動作』が習得できている人を
じっくり肌感覚の距離で感じ取れるような体験ができてくるなら。。。
徐々に自分から『支えの法で歩く動作』にも一定の価値を感じ、違和感も拭えてくるのでしょう。
幼児が親の動作を観て、その動き方を学習するという見習うといった身体操作法の習得もあります。
さっこん、そういうのも賢いやり方でいいなと思ったこの頃です。
2023年03月29日
エクササイズではよく 練られた動きをこころがけよう
最新の車の機能に、
ほぼリアルタイムでドライビングによる燃費の持ち具合が数分間のうちにフィードバックされるものがあります。
〈車から聞こえる音声〉
その運転では、燃費のロスがどれくらい生じてますよ(不快感)
その運転で、燃費がこのくらいの量、アップしましたよ(快感)
たったいま、自分が行った行為行動に、即時に評価が得られたとき、
なにがよかったのか悪かったのかが知ることができます。
だから改善点がわかり的確な運転方法の修正ができます。
修正後は快に転じた評価のアナウンスを受け取ることができ、
定着していくのです。
人は不快からは遠のきたい、快には近づきたい。
だから燃費向上につながる運転技術がこの機能のおかげで身につくのですね。
自動車学校では言われた運転ができなかった講習生に
「なにやってんだ!?」と脅しに聞こえる指摘が痛く傷つくものです。
ですがこの機能のいいところは
淡々と繰り返し事実を評価しフィードバック。
人は怒られれば直るもんじゃないし学ぶものでもない。
たったいま、自分がなした行為を観察できるようにすれば、
人は、自動的に良好な行動変容が得られるようにできているのです。
それの好例がこういったドライビング評価のアシスタント機能ですね。
よいトレーニングってないですか?
って質問されたとき。
ひとまず、それらしいエクササイズをつたえるものですが、
そうしたエクササイズの実践から成果が引き出せるかどうか。
そこには差が出てくるでょう。
運動の効果や成果を引き上げたいとき。
行為中に観察し、
行為後に行為の即時ふりかえり。
ふりかえって考えたら、別の手があったと気づけば即座にそれを試行。
そんなふうにエクササイズをするならば、
体を無益に壊すような負担が著しいトレーニングはできなくなります。
自身の身体操作の一挙手一投足。
行為中の内部感覚を含めた観察と行為後にふりかえって評価を心のなかでつぶやけば、
その行為は自身の身にふさわしい潜在力を引き出して変化を観察できるはずです。
そして車の燃費向上システムの稼働と同様な手法で、
即時評価とその指摘に呼応するフィードバックをすることで、
人の体の運用にかかる燃費もよくすることもできるでしょう。
「よく練られた、いぶし銀の動き(練られた動き)」は、
こうした要領でたったひとりだけでも養成することができます。
ほぼリアルタイムでドライビングによる燃費の持ち具合が数分間のうちにフィードバックされるものがあります。
〈車から聞こえる音声〉
その運転では、燃費のロスがどれくらい生じてますよ(不快感)
その運転で、燃費がこのくらいの量、アップしましたよ(快感)
たったいま、自分が行った行為行動に、即時に評価が得られたとき、
なにがよかったのか悪かったのかが知ることができます。
だから改善点がわかり的確な運転方法の修正ができます。
修正後は快に転じた評価のアナウンスを受け取ることができ、
定着していくのです。
人は不快からは遠のきたい、快には近づきたい。
だから燃費向上につながる運転技術がこの機能のおかげで身につくのですね。
自動車学校では言われた運転ができなかった講習生に
「なにやってんだ!?」と脅しに聞こえる指摘が痛く傷つくものです。
ですがこの機能のいいところは
淡々と繰り返し事実を評価しフィードバック。
人は怒られれば直るもんじゃないし学ぶものでもない。
たったいま、自分がなした行為を観察できるようにすれば、
人は、自動的に良好な行動変容が得られるようにできているのです。
それの好例がこういったドライビング評価のアシスタント機能ですね。
よいトレーニングってないですか?
って質問されたとき。
ひとまず、それらしいエクササイズをつたえるものですが、
そうしたエクササイズの実践から成果が引き出せるかどうか。
そこには差が出てくるでょう。
運動の効果や成果を引き上げたいとき。
行為中に観察し、
行為後に行為の即時ふりかえり。
ふりかえって考えたら、別の手があったと気づけば即座にそれを試行。
そんなふうにエクササイズをするならば、
体を無益に壊すような負担が著しいトレーニングはできなくなります。
自身の身体操作の一挙手一投足。
行為中の内部感覚を含めた観察と行為後にふりかえって評価を心のなかでつぶやけば、
その行為は自身の身にふさわしい潜在力を引き出して変化を観察できるはずです。
そして車の燃費向上システムの稼働と同様な手法で、
即時評価とその指摘に呼応するフィードバックをすることで、
人の体の運用にかかる燃費もよくすることもできるでしょう。
「よく練られた、いぶし銀の動き(練られた動き)」は、
こうした要領でたったひとりだけでも養成することができます。
2023年03月08日
人間の感覚は、けっこう正しいものなのか。それとも・・・
人間は、自分の直感や感覚が、結構正しいと思ってます。
それが事実だと思ってしまうのです。
それを事実と思うことで幸せになるならいいのですが、
それを事実と思うことで不幸になるなら?
そうしたらもう1回、再検証することが大切です。
・自分はどんな事実を見たのか
・どんな解釈をしたのか
・どんな結論に至ったのか
そういうプロセスを再度こころみることで、
かならずしもそうとは言えないという気付きがでてきます。
そうなると、
「では、代わりをどのようにしてみましょうか?」
というように改めて探求し始めることができます。
このことは自身の身体状況の把握についても言えていることなのです。
たとえば、
「私はふつうに座ってるだけなのに、腰、痛くなるんです」
「ふつうに座っているだけ」というのは、その方の主観でのお話です。
その人がしている座り方なら腰痛になるわけはないという考えが見えます。
だからそこに対して質問をして、より具体的内容をうかがう必要があります。
いわゆるこれが、つっこみどころです。
もしその方がなさっておられる座り方を私がまねすれば、
座り方の問題により、その人同様、腰痛を起こすかもしれません。
またはその方自身がすでに腰痛の種になるような腰への負担蓄積があるのかもしれません。
普通とか一般的にという基準は世界中探してみても、
その人自身が抱いていた独自の感覚に過ぎないのです。
普通すぎて取るに足らないと切り落とされ表現されなかった点について
できるだけ事実と直感と感覚を分けて話をうかがうのです。
「ふつうの座り方」という感じ方にもとづいてのべた言葉について
「必ずしもそうは言えないかもしれない」と気づけたとします。
そうなれば話は建設的になりはじめます。
「では、代わりをどのようにしてみましょうか?」
ここでふつうじゃ陥らないことで苦しんでいる自分がいて困っていた思考の混乱から抜け出せるよう、
一歩前進できたことになるでしょう。
普通の座り方、普通の立ち方、普通な歩き方、普通な所作。。。
直感的に自分はまさにふつうなことをしていただけと考えていたならば、
まずは、
「どうしてそう感じたのですか?」
と、自問自答をしてみましょう。
もしその座り方や立ち方で不具合がなければ、そこでやめてOKです。
ですが不具合を感じていたとしたら、
姿を鏡や映像にうつして客観的に見つめたり、
他の良好な健康状態を持つものとそれを比較して事実から学ぶとよいでしょう。
そうすると普通な所作などどこにもないことに気づきます。
不具合を感じる結果を導き出す原因は、長い年月を経て蓄積されただけあって、
そうした普通に感じる強さもことさらに強いものです。
理想状態との比較を写真等でおこなわれても、
そのときすっと脳がそれを認めることはないでしょう。
通常、徹底抗戦の構えで言い訳をして、現状を守ろうとする。
(まさに私もそうでした!==;)
そうするようなプログラムが本能の中に差し込まれているかのように、
多くの人々にとって共通の反応としてそれがおこることでしょう。
身体はとにかく急激な変化変容は嫌います。
特に手探りのままでの急激な変化は危険だから避けたい。
それが度を越すことで、現状維持を決め込んで悪癖を見て見ぬふりをさせる。
人の内側にそうした行動を取る傾向があるようなのです。
だからこそ身体操作のプロは、
そうした脳の自己弁護からはっせられるふつうというワードがでたとき、
脳が自身の進化を妨げようとしていると見抜きます。
その上で、変化のない日常からエキサイティングなプラスの未来へ続く冒険の旅にでていきます。
それが事実だと思ってしまうのです。
それを事実と思うことで幸せになるならいいのですが、
それを事実と思うことで不幸になるなら?
そうしたらもう1回、再検証することが大切です。
・自分はどんな事実を見たのか
・どんな解釈をしたのか
・どんな結論に至ったのか
そういうプロセスを再度こころみることで、
かならずしもそうとは言えないという気付きがでてきます。
そうなると、
「では、代わりをどのようにしてみましょうか?」
というように改めて探求し始めることができます。
このことは自身の身体状況の把握についても言えていることなのです。
たとえば、
「私はふつうに座ってるだけなのに、腰、痛くなるんです」
「ふつうに座っているだけ」というのは、その方の主観でのお話です。
その人がしている座り方なら腰痛になるわけはないという考えが見えます。
だからそこに対して質問をして、より具体的内容をうかがう必要があります。
いわゆるこれが、つっこみどころです。
もしその方がなさっておられる座り方を私がまねすれば、
座り方の問題により、その人同様、腰痛を起こすかもしれません。
またはその方自身がすでに腰痛の種になるような腰への負担蓄積があるのかもしれません。
普通とか一般的にという基準は世界中探してみても、
その人自身が抱いていた独自の感覚に過ぎないのです。
普通すぎて取るに足らないと切り落とされ表現されなかった点について
できるだけ事実と直感と感覚を分けて話をうかがうのです。
「ふつうの座り方」という感じ方にもとづいてのべた言葉について
「必ずしもそうは言えないかもしれない」と気づけたとします。
そうなれば話は建設的になりはじめます。
「では、代わりをどのようにしてみましょうか?」
ここでふつうじゃ陥らないことで苦しんでいる自分がいて困っていた思考の混乱から抜け出せるよう、
一歩前進できたことになるでしょう。
普通の座り方、普通の立ち方、普通な歩き方、普通な所作。。。
直感的に自分はまさにふつうなことをしていただけと考えていたならば、
まずは、
「どうしてそう感じたのですか?」
と、自問自答をしてみましょう。
もしその座り方や立ち方で不具合がなければ、そこでやめてOKです。
ですが不具合を感じていたとしたら、
姿を鏡や映像にうつして客観的に見つめたり、
他の良好な健康状態を持つものとそれを比較して事実から学ぶとよいでしょう。
そうすると普通な所作などどこにもないことに気づきます。
不具合を感じる結果を導き出す原因は、長い年月を経て蓄積されただけあって、
そうした普通に感じる強さもことさらに強いものです。
理想状態との比較を写真等でおこなわれても、
そのときすっと脳がそれを認めることはないでしょう。
通常、徹底抗戦の構えで言い訳をして、現状を守ろうとする。
(まさに私もそうでした!==;)
そうするようなプログラムが本能の中に差し込まれているかのように、
多くの人々にとって共通の反応としてそれがおこることでしょう。
身体はとにかく急激な変化変容は嫌います。
特に手探りのままでの急激な変化は危険だから避けたい。
それが度を越すことで、現状維持を決め込んで悪癖を見て見ぬふりをさせる。
人の内側にそうした行動を取る傾向があるようなのです。
だからこそ身体操作のプロは、
そうした脳の自己弁護からはっせられるふつうというワードがでたとき、
脳が自身の進化を妨げようとしていると見抜きます。
その上で、変化のない日常からエキサイティングなプラスの未来へ続く冒険の旅にでていきます。
2023年03月03日
足部はソッカの美術解剖学ノートで、多角的によーく観察しょう。
ハーモニー体操の先生をしている方からの会話。
『ソッカの美術解剖学ノート(書籍)を手に入れて読んでいて、〈足首〉に興味があるんだ』と言われました。
私もソッカの美術解剖学ノートは、買って手元に起き続けている解剖学上のすばらしい良書。
本書は650ページにもなる大著です。
脚や足部が解説されるのは本書の末章近くにある500ページあたり。
イラストが多数ではあっても内容が濃くあらたなる発見が目白押しの本で、
私が読み終わるまで数百時間を要し一週間まるまる費やしました。
こちらのハーモニー体操の先生も最後まで目を通したのでしょう。
ていねいにこの本を読まれているんだなと感心しました。
脚は第三種てこ、足は第二種てこで力が発揮できるシステム。
足首から下にある足の第二種てことは、
つま先が支点、中足骨の前方先端〈足指が曲がるキワの膨らみ部分〉が作用点、かかとが力点です。
馬や猫やクマ・猿などと人間の足部を比較することで、それぞれの足部の使われ方の違いを解説し、
理解を深めるのに役立てています。
外反母趾でお困りの不都合の改善を願う方や、
バレエダンサーなど足部をきわめて繊細かつ機能的に活用する必要がある方が目を通していただくと、
理解の助けになります。
私が動きの質のよさを理解するため中国武術等の動きをともなう映像を参照するとき、
まずは地面に接する足部の動きだけに冷静に着眼し続け目で追うようにします。
脚や胴や手や首、頭部はその後です。
スローモーションで動画視聴すると細やかな足部の動きが際だって見えてきて、
足の第二種てこが操作された瞬間から把握できるタイミングがあります。
アキレス腱を利かせてかかとの力点を移動させたり固定されるのですが、
そのパフォーマンスと全身の操作が合理的に連動しているのがわかります。
私自身、じつは足部の使い方が未熟でして、
施術のときに得る足部の負担が元で右の親指に外反母趾になると困られる方と同位置にたこがでてきてきて。
ちょっとがっくりするところなんです。
自己観察を行うところでは右足部のmp関節の作用点の置き方・向ける方向が悪く、
右足首前の動きがぎくしゃくしての原因でしょう。
要するに右かかとの力点が軽すぎて不安定になっているわけで思うように動けてないんです。
右足部の内向きの度合いが高すぎて右親指の正中線に向かって内側にたこができるようになっている。
自身の足部の硬化した筋や靱帯や腱をみればそうだとわかるものの、
いったん身につけた動作の悪癖は容易には拭いづらいものです。。。
右利きのものは右かかとの力点が浮いて右つま先側を支点かつ力点でもあるかのような状態になることでてこの効きが悪くなる。
左利きでは上述の右利きの逆のことが起きて左足のてこが効きが悪くなると理解してください。
これほど懇切丁寧にイラストを駆使して解説してくれる本はめずらしいというか希有な本でしょう。
私も、本書の足部のページをもっとしっかり読み込んで考察を重ねて自己復活できるようがんばりたいと思います。
2022年11月18日
能での胴体が(静)で脚が(動)と分別し安定した姿勢や動き
先日、池袋で「としま能」狂言と能の宴を見せていただく機会をあたえていただきました。
(Gさん、ありがとうございました!)
演目・出演
解説/観世喜正
和泉流 狂言「樋の酒」野村萬 ほか
観世流 能「道成寺」観世喜正、野村万蔵 ほか
私はだいぶ昔に、一度薪能を観たことがあってそれ以来です。
狂言「樋の酒」に魅かれるところが多々ありました。
ですが能の「道成寺」の人を舞台空間へと引き込む力に、
改めて700年の能を受け継ぎ発展させてきた芸術性の高さに圧倒されました。
例え方は適切ではありませんが、
矢沢永吉ライブを観にいったときに感じたときのように密度の濃く染まった時間が瞬く間に過ぎたときのようです。
ワンシーンごとに正確な記憶にとどめられたわけではなく、
舞台上の演者や奏者が発する熱い波が押し寄せてきて身を包まれた印象だけが余韻として残り続けています。
ただその日の目的のひとつに、
「舞台上の狂言・能の和の所作をつぶさに観察」がありました。
セリアで買ってきたオペラグラスを覗きつつ、
生の演者の動きを眺め参考にさせていただくことができました。
生で見た絵と映像でみた絵では、印象が異なって見えます。
胴体と脚部の主従関係ですが
「胴体が主で脚部が従たるもの」とつくづく感じました。
歩き、立ちとも、つねに胴体がみじんもぶれずにいます。
胴体が(静)で脚が(動)と分別し安定した姿勢や動きがかなえられる。
それは優れた動きの基本と考えられる「動中静あり、静中動あり」の体現が見えてきます。
意外にこの所作、人様が見てほめていただけるほどの品の良さまで格別なものとするには、
体幹のすぐれた支えの保持の継続性とは、体幹の支えの筋力のみならず、
脚の操作で体幹へぶれを生じさせない脚運びの用法がかなえられる必要が出てきます。
そのようなことが実際にできて演じておられる演者の体運びを存分に観る機会は、
私にはそうそうあるようでいてありません。
特に「和の所作」と呼べそうな身体操作は!
ときとして私たちの幾人かは、
胴体が(動)で脚が(動)となって(静)が事欠くことにより、
動きが乱れて流れて合理的な所作感覚が失われてしまっている。
それによりぶれつづけてあちらこちらへと胴体が傾斜しまくり、
それを倒さぬように支えるために踏ん張る脚の外側の筋が固められることとなります。
そのような場合におこる複雑な身体の操作にかかる労力は莫大ですから、
それが疲労の蓄積へと転化して脚や腰の筋の癒着へと展開されています。
胴体がぶれつづける動きを立位や歩行時になさる方の場合には、
そうなっている自覚が得られていないケースが多くあるはずで、
あまり他者から修正を迫られることもないはずです。
ただ能を習い始めたという方の場合には、
厳密に修正を求められることとなります。
メッキがはがれるほどのカンタンな修正はたやすいですが、
それでは他のよくできた演者と並べば浮いてしまうでしょう。
からだの外見(そとみ)からでは見えないでしょう。
そういった所作は筋電計測をする機器で測れば
一般の者とはまったく違った筋の操作により生み出されています。
能の修行を信頼置ける先生により得られた稀有な方は、
そうした定理について学ばれる機会があることでしょう。
素晴らしい!
他にも多々動き方の視点で気づき感じることもあり、
良質な動きの所作を目に焼き付けることができました。
もちろんいまの私ががそれを真似ておこなうのは悔しいが至難の業です。
そうは思いながらも、
まずは質の高い所作をする方々に興味を持ち触れることは、
肌感覚でそれを知るには有効なことだろうと感じますので。
ほんとうに今回のとしま能では、いい機会を得られたと喜んでいます。^-^
(Gさん、ありがとうございました!)
演目・出演
解説/観世喜正
和泉流 狂言「樋の酒」野村萬 ほか
観世流 能「道成寺」観世喜正、野村万蔵 ほか
私はだいぶ昔に、一度薪能を観たことがあってそれ以来です。
狂言「樋の酒」に魅かれるところが多々ありました。
ですが能の「道成寺」の人を舞台空間へと引き込む力に、
改めて700年の能を受け継ぎ発展させてきた芸術性の高さに圧倒されました。
例え方は適切ではありませんが、
矢沢永吉ライブを観にいったときに感じたときのように密度の濃く染まった時間が瞬く間に過ぎたときのようです。
ワンシーンごとに正確な記憶にとどめられたわけではなく、
舞台上の演者や奏者が発する熱い波が押し寄せてきて身を包まれた印象だけが余韻として残り続けています。
ただその日の目的のひとつに、
「舞台上の狂言・能の和の所作をつぶさに観察」がありました。
セリアで買ってきたオペラグラスを覗きつつ、
生の演者の動きを眺め参考にさせていただくことができました。
生で見た絵と映像でみた絵では、印象が異なって見えます。
胴体と脚部の主従関係ですが
「胴体が主で脚部が従たるもの」とつくづく感じました。
歩き、立ちとも、つねに胴体がみじんもぶれずにいます。
胴体が(静)で脚が(動)と分別し安定した姿勢や動きがかなえられる。
それは優れた動きの基本と考えられる「動中静あり、静中動あり」の体現が見えてきます。
意外にこの所作、人様が見てほめていただけるほどの品の良さまで格別なものとするには、
体幹のすぐれた支えの保持の継続性とは、体幹の支えの筋力のみならず、
脚の操作で体幹へぶれを生じさせない脚運びの用法がかなえられる必要が出てきます。
そのようなことが実際にできて演じておられる演者の体運びを存分に観る機会は、
私にはそうそうあるようでいてありません。
特に「和の所作」と呼べそうな身体操作は!
ときとして私たちの幾人かは、
胴体が(動)で脚が(動)となって(静)が事欠くことにより、
動きが乱れて流れて合理的な所作感覚が失われてしまっている。
それによりぶれつづけてあちらこちらへと胴体が傾斜しまくり、
それを倒さぬように支えるために踏ん張る脚の外側の筋が固められることとなります。
そのような場合におこる複雑な身体の操作にかかる労力は莫大ですから、
それが疲労の蓄積へと転化して脚や腰の筋の癒着へと展開されています。
胴体がぶれつづける動きを立位や歩行時になさる方の場合には、
そうなっている自覚が得られていないケースが多くあるはずで、
あまり他者から修正を迫られることもないはずです。
ただ能を習い始めたという方の場合には、
厳密に修正を求められることとなります。
メッキがはがれるほどのカンタンな修正はたやすいですが、
それでは他のよくできた演者と並べば浮いてしまうでしょう。
からだの外見(そとみ)からでは見えないでしょう。
そういった所作は筋電計測をする機器で測れば
一般の者とはまったく違った筋の操作により生み出されています。
能の修行を信頼置ける先生により得られた稀有な方は、
そうした定理について学ばれる機会があることでしょう。
素晴らしい!
他にも多々動き方の視点で気づき感じることもあり、
良質な動きの所作を目に焼き付けることができました。
もちろんいまの私ががそれを真似ておこなうのは悔しいが至難の業です。
そうは思いながらも、
まずは質の高い所作をする方々に興味を持ち触れることは、
肌感覚でそれを知るには有効なことだろうと感じますので。
ほんとうに今回のとしま能では、いい機会を得られたと喜んでいます。^-^
2022年10月31日
施術のときの歩き方や立ち方のレクチャー等について、私の立場はコーチングのコーチ役として考えています
「コーチング」と「トレーニング」の違いって?
コーチングを学んだものからいわせていただけば、
もともとコーチングとトレーニングは比べる対象にならないものです。
コーチングする人もトレーニング促す人も、
どちらもコーチと呼ばれるため混同しやすいため引き合いに出される対比関係ですね。
コーチングは、質問で本人が認知していることをしゃべっていただいて、
その認知を磨く手伝いをすることだと考えています。
「人に教えることはできない。
人が悟るように手助けすることができる」
ガリレオ・ガリレイはそのように語っていました。
まさにこのことばが端的にコーチングのコーチがしたいことをあらわしています。
コーチングの起源は、1500年代に生まれたcoach「馬車」という単語に由来 します。
快適に人のパフォーマンスをうながす手伝いをするコーチの姿を、
快適に人を運ぶことができ人気の馬車をつくるcoach村の馬車となぞらえてコーチという名を受けたのです。
なので、、、
コーチは馬車としての自身の役割に対しての評価はするでしょうが、
クライアントがパフォーマンスを向上できたかどうかは本人が評価するものと割り切っています。
もちろん、すばらしいパフォーマンスをしめすクライアントに対して賞賛の言葉を送ることはかまいません。
でもトレーニングをするときのトレーナーが本人の知識や技能の習得状態を評価するようなことはしません。
たとえば。
コーチングで、コーチとクライアントのセッションで。
「パフォーマンスを向上させるためにやってみたいことは?」とコーチが問うと、
クライアント自らが
「なかなか思いつかないんですよ〜」
とか。
「思いつかない」というのも現状の自身の状態を明瞭にできたという成果があります。
だからそれにダメ出しをして突っ込むようなことをする気など、さらさらありません。
クライアントが投げやり過ぎた態度なら、話は別ですが、
高いフィーを払ってそのような生産性のないことをする人は圧倒的に少数派です。
だからこそ真剣に考えた結果でてきた、ありがとうといいたくなる言葉なのです。
そのときはどんな小さなことでもいいからと、コーチが粘ってそこを深堀するのか、
または今後に思いつくこともあるでしょうから、そのときを楽しみに待ちましょうというのでOK。
「そうですねぇ、、たとえば、以前こんなことをしたらパフォーマンスが高まった記憶があって、それを応用したらいいのかな。そっか!」
とか。
するとコーチは、その発想や着想が抽象度が高ければ、
そこを具体的な絵に描けるよう細部を語りやすくするよう質問を投げかけて話を聞きだします。
これは質問によりクライアントの気づきをうながしているのです。
そう本人に適した型が探求され、それに対しての評価をするのは本人のみです。
コーチが評価することはありません。
ただ「思いつかない」とおっしゃられたとき、
本来は徹底的に本人に適した型を探求するよう付き合い倒せればいいのですが、
施術時間にも限りがあります。。。
そのときはあらかじめ決められた型を、サンプルとしてお伝えさせていただいております。
クライアント自身が自身の過去の体験や知識などから得た型を
詳細な展開図として描けるようにイメージを膨らませるお手伝いをするほうがコーチングのコーチ的です。
そのときは私があらかじめ決めていた型となるサンプルなどは出る幕ではありません。
自身が着想して大事に育てたものほど、そのものにとって認知を一掃できる力がこもったものはありません。
そして私サイドであらかじめこういった型をサンプルに用意したというものなど、
正解を教えるといえるような大それたものではないことを知っているため、
自身が持っている大事なやり方を捻じ曲げてこちらのやり方を教えて反復練習させていくことは望んでいないのです。
たとえクライアント自身の着想に一部バグがあったとしても、
探求する過程でそこに気づいて理解を深めるきっかけとなさったほうが応用が利く人になれるという考えです。
実際、そういったバイタリティーある探求者からは私がうならされるような貴重な気づきをシェアしていただけています。
ということで、
「私はまだ立ち方がうまくいってないところがあって・・・」といった、
気の弱い口調で私がそこを評価し叱責するかのように期待しているお客様。
そこは気に病まれるようなことはありません。
かえって堂々と、
「ここまではわかったんで賞賛してください!」とおっしゃっていただければ光栄です。
何度も繰り返し立ち方や歩き方をお伝えするには、
そこにそうしなければならない生理的な理由もあるのです。
姿勢筋や動作に関する筋肉を操作する運動神経系は、
オトナになってからそれまで何千、何万も繰り返し強化した運動神経系の操作手順を書き換えることは、本当に至難の業なんです。
すでに自身でどうやって自分が立っているかとか歩いているかなどが無意識にできてしまうようになると、
よほどの自主研究者か研鑽を積むことがなければ変更ができることが奇跡だといっている者もいるほどのことでして。
私としては、本来はコーチングのコーチ役で徹して本人が探求する型を高めることの手伝いか、
または私自身がじぶんならこうするのが今の正解だと感じたことをお客様のたたき台として提供することで、
徐々にではありますが後戻りなさらないような型を得て、自分らしさと感じられる(=良好なものを得たという認知)ようになるお手伝いを心がけています。
コーチングを学んだものからいわせていただけば、
もともとコーチングとトレーニングは比べる対象にならないものです。
コーチングする人もトレーニング促す人も、
どちらもコーチと呼ばれるため混同しやすいため引き合いに出される対比関係ですね。
コーチングは、質問で本人が認知していることをしゃべっていただいて、
その認知を磨く手伝いをすることだと考えています。
「人に教えることはできない。
人が悟るように手助けすることができる」
ガリレオ・ガリレイはそのように語っていました。
まさにこのことばが端的にコーチングのコーチがしたいことをあらわしています。
コーチングの起源は、1500年代に生まれたcoach「馬車」という単語に由来 します。
快適に人のパフォーマンスをうながす手伝いをするコーチの姿を、
快適に人を運ぶことができ人気の馬車をつくるcoach村の馬車となぞらえてコーチという名を受けたのです。
なので、、、
コーチは馬車としての自身の役割に対しての評価はするでしょうが、
クライアントがパフォーマンスを向上できたかどうかは本人が評価するものと割り切っています。
もちろん、すばらしいパフォーマンスをしめすクライアントに対して賞賛の言葉を送ることはかまいません。
でもトレーニングをするときのトレーナーが本人の知識や技能の習得状態を評価するようなことはしません。
たとえば。
コーチングで、コーチとクライアントのセッションで。
「パフォーマンスを向上させるためにやってみたいことは?」とコーチが問うと、
クライアント自らが
「なかなか思いつかないんですよ〜」
とか。
「思いつかない」というのも現状の自身の状態を明瞭にできたという成果があります。
だからそれにダメ出しをして突っ込むようなことをする気など、さらさらありません。
クライアントが投げやり過ぎた態度なら、話は別ですが、
高いフィーを払ってそのような生産性のないことをする人は圧倒的に少数派です。
だからこそ真剣に考えた結果でてきた、ありがとうといいたくなる言葉なのです。
そのときはどんな小さなことでもいいからと、コーチが粘ってそこを深堀するのか、
または今後に思いつくこともあるでしょうから、そのときを楽しみに待ちましょうというのでOK。
「そうですねぇ、、たとえば、以前こんなことをしたらパフォーマンスが高まった記憶があって、それを応用したらいいのかな。そっか!」
とか。
するとコーチは、その発想や着想が抽象度が高ければ、
そこを具体的な絵に描けるよう細部を語りやすくするよう質問を投げかけて話を聞きだします。
これは質問によりクライアントの気づきをうながしているのです。
そう本人に適した型が探求され、それに対しての評価をするのは本人のみです。
コーチが評価することはありません。
ただ「思いつかない」とおっしゃられたとき、
本来は徹底的に本人に適した型を探求するよう付き合い倒せればいいのですが、
施術時間にも限りがあります。。。
そのときはあらかじめ決められた型を、サンプルとしてお伝えさせていただいております。
クライアント自身が自身の過去の体験や知識などから得た型を
詳細な展開図として描けるようにイメージを膨らませるお手伝いをするほうがコーチングのコーチ的です。
そのときは私があらかじめ決めていた型となるサンプルなどは出る幕ではありません。
自身が着想して大事に育てたものほど、そのものにとって認知を一掃できる力がこもったものはありません。
そして私サイドであらかじめこういった型をサンプルに用意したというものなど、
正解を教えるといえるような大それたものではないことを知っているため、
自身が持っている大事なやり方を捻じ曲げてこちらのやり方を教えて反復練習させていくことは望んでいないのです。
たとえクライアント自身の着想に一部バグがあったとしても、
探求する過程でそこに気づいて理解を深めるきっかけとなさったほうが応用が利く人になれるという考えです。
実際、そういったバイタリティーある探求者からは私がうならされるような貴重な気づきをシェアしていただけています。
ということで、
「私はまだ立ち方がうまくいってないところがあって・・・」といった、
気の弱い口調で私がそこを評価し叱責するかのように期待しているお客様。
そこは気に病まれるようなことはありません。
かえって堂々と、
「ここまではわかったんで賞賛してください!」とおっしゃっていただければ光栄です。
何度も繰り返し立ち方や歩き方をお伝えするには、
そこにそうしなければならない生理的な理由もあるのです。
姿勢筋や動作に関する筋肉を操作する運動神経系は、
オトナになってからそれまで何千、何万も繰り返し強化した運動神経系の操作手順を書き換えることは、本当に至難の業なんです。
すでに自身でどうやって自分が立っているかとか歩いているかなどが無意識にできてしまうようになると、
よほどの自主研究者か研鑽を積むことがなければ変更ができることが奇跡だといっている者もいるほどのことでして。
私としては、本来はコーチングのコーチ役で徹して本人が探求する型を高めることの手伝いか、
または私自身がじぶんならこうするのが今の正解だと感じたことをお客様のたたき台として提供することで、
徐々にではありますが後戻りなさらないような型を得て、自分らしさと感じられる(=良好なものを得たという認知)ようになるお手伝いを心がけています。








