「 病は治るものなり
何かをしなくとも自ずから治るものなり
治らざるは、自分が病んでいるからなり
自分が病まねば、病は自ら去るなり
それが病むということなり 」
この文章は、
野口整体の創始者である野口晴哉(はるちか)先生のことばです。
なぞかけのような深さがあります。
ここで述べられている「自分」とは、
なにを指しているのでしょうか?
冒頭に、そのような不思議な印象を受けます。
自分の身体は生をまっとうするための遺伝プログラムにより、
つねづねからだの状態をよくしていこうとするようにつくられています。
だから創造主が与えてくれた病を治す力にお任せすることにより、
一時は得た病も、やがて身体から出て行くしかないものなのです。
ならば自らの肉体は治りたがっているわけですから、
そこを邪魔しないなら、うまくいくはずなわけです。
そういうものだから、もしいまだに病が治らないというならば、
それは自分自身に病むに病まれぬ状態であるということである。
「自分が病む」から、病は内外から訪れてくるだけだとすれば。
「自分が病んでいる」というのは、いったい自分のなにが、どう病んでいるのだろうか?
ここで自分の身体が病んでいるとなれば、
当たり前のことをことさらにいわれても、
あまりひびくようなところもないものです。
それは「己が魂」のことを言い含めた意味あいなのでしょうか?
または「自身の思考が自然体から遠ざかり息が詰まるような」のでしょうか?
うまく言いえている言葉がでてきません。。。 ^-^;
人は生活を送る上で「ハレ」と「ケ」を、
行きつ戻りつしながら暮らし学び成長するものです。
その際の「ケ」のときには「自分が病む」ようなこともあるのでしょう。
それは、相当な菩薩行がなされたかたでない限り、普通のことでしょう。
そんな「自分が病んでいる」状態を選択せざるを得ないときもあるでしょうが、
わずかずつでも「自分が病まないでいられる」変化を起こしたいものですよね。
私ならば。
「病んだ心」へとおちいれば、
そこではできるだけ長居をせず、
前向きにコーチングマインドで進んでいきたいですね。
心を頑なにせず、
気分を落ち込ませずぎもせず。
おおらかに生き生きと、
日々を有意義にいられるなら。
こころの緊張を解きほぐして、
気持ちの執着やわだかまりを取り除いていくなら。
そこに「自分の病み(闇=やみ)」を照らす光が配られるでしょう。
そのように心がけていれば、いま、目に見える、または内側に隠れ住む「病」も去ってくれるでしょうか。
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