2016年12月07日

大難を中難に、中難を小難に、小難を無難に。



大きな症状として体に症状が出てしまうとき。
それを大難としましょう。

その大難が起きる前には、
体の中に問題が潜伏して、
その根が着実に深まっていく状態になります。

実際は予兆のようなものはでているのですが、
なぜ予兆を見逃すかというと、
その潜伏しているものが強ければ強いほどに、
患部周囲への血液流入量が減少して麻痺を起こしているから。

そうなると、状態の察知する能力が鈍っています。
すると、実は甚大なダメージが内在するにもかかわらず、
ほんのささいな不快感としか感じられなくて見過ごします。

実は体を徹底的にリリースをして、
同時に動き方の技量が向上しているかいっている人の場合、
体の書き換えをしているときに、
今までならば血行不良が痛みや不快感を麻痺させた状態が、
血行が行き渡りだすことによって、
すでに体の中の断層化した筋膜の癒着により問題が内在していたところが
意識の表面上で気づけるようになってくることがあります。

潜在化したダメージ。
蓄積した疲労により筋膜の癒着が奥に進んでいる部分がはじめて感じ取れだしたりというのもそうです。
それだったら、非情にわかりやすいですね。

しばらくその不快感は続くこともあるでしょう。
ですが、不快感のもととなっている潜在化した問題点は、
放置して治るものではないので、やがては大地震が起きるのです。

そのような大きなダメージを体全体に響かせるような手前にして、
蓄積した体内のダメージを発散させることができる人ほど、
大ごとの問題を起こしにくくなっていますから。

そこを乗り越えると、すっきりと、さっぱりと、しっかりと。

そんな言葉で表現できるような、
自身の体が若々しい赤ちゃんのような筋肉状態に変わっていきますから。

それは、やっぱり体験してもらうと嬉しい限りの状態ですね。

これは受け身で施術を受けるだけで十分にそこまで行けるものではなく、
体の合理的な使い方ができるようになっているか、
そのような改変を繰り返して上り詰める人に起きることのようです。


ですが、これはまた別な視点かもしれませんが、
体と心は車の両輪のように走りだすようなもの。

体が大難から中難に事を収めるために問題を表出させたとき、
心のなかでもそれと同様な浄化作用が起こることがあります。

私の場合は、まったくもって、決まってそれが起きてしまう。
体の方は楽に使えるよう変化した状況に突入できた。
すると、とたんに気分はけっこうよくなったルンルンですね。

ですがそれが心のなかにある潜伏しているわだかまりがでる。
ここをもっとスマートな愛ある解釈ができるようになれれば、
もっと自分は自分を好きになり、人を信頼できるようになる。
そのような普段ならば、
押し殺しているつもりもない些細に思えていたことが、
やたらに気に触ったり、いらついたり、おちこんだり、
鬱になる感じへへこたれてみたり。
そのような感じに落とし込まれて、
口に出して表現することは難しいような感覚に陥ることがある。

それが、ふとしたきっかけで
「いま、自分が握りしめているものって、手放しなよ。執着して持ち続けないでいこうよ」
「そうやってみたほうが、自分をもう一段階、気にいることができるようになるはずだな」
などの、今までの自分の殻を脱皮してちょうちょになって羽ばたくイメージになることが。



体の筋膜がゆるめられ、その状態が維持できるという変化し変容が起きたというのは、
それは体内の無自覚のうちに緊張し続けていた筋肉をゆるめても生きられる理解をした証拠をつかむときだ。
それには「緊張しなければならない」という無自覚のうちに創りだした信念を手放して、
体内の様々な組織に蓄積した汚れのようなものを浄化していくというステップがあっておきることです。

その歩みに、私は、
こころの成長も追随しようとするのだと思います。

ですがこれは私の体の使い手の友人にも、同様のことを申されるひともおられまして。
数名は、このような体の緊張リリースといった浄化とこころのわだかまりのリリース、
それはほぼ同時進行で歩調を合わせて進んでいくものだという人もいますし、
私のように体が先に緩んでいき、あとでこころの浄化で怖い目に合う人もいる。

そこは個人差があって、より向き合いたくないほうが後に追随してきてしまうものかと私は思っています。

ただ、そんなことは、少し真似しづらいレベルのことで、
やたらに起きるようなことじゃないところもあるのです。

私の場合は、出足のスタート地点が低すぎたから、
普通の人レベルになっただけでも、そのような変化を有意義に体感できたという、
特別な才能を持っている人なんでしょう。。。 ^-^;

ですが、本日、お客様の中で体の使い方をかなり深い理解に至るまで研究なされ、
同時に筋肉も赤ちゃんレベルのコンディションにほぼ落ち着いて定着してきた方がおられまして。



その方がおっしゃられるには、

「体がずいぶんベストコンディションになっているはずなのに、
気持ちが晴れやかで突き抜けた感がなくって、沈んでいた。
ここ数日内で、そこから抜け出るヒントを得て抜け出れたけど、
それまでは、これって、なんでなの!?」

という感じだったそうです。


それをお伺いいたしまして、
私が体を芯から浄化させようとしたときと、
つらく感じた感覚と同じなのではと思いまして。

「実は私も、体が浄化されるときにこころの浄化も後追いできて、どっぷり、ひどい目にあうことがある」
というと、

「えぇ〜、なぜ、言ってくれなかったのぉ」と。

そのとき、
私も、悪いことをしたなとごめんなさいといいました。


起きるかどうかの推測で将来起きる恐怖体験について、
あまり、ここを突っ込んでいいすぎると、結果がよくないんです。
それは過去の実績でそのように感じまして。。。

「体を緩めると心がネガティブと対峙してぶち当たるつらさを感じるものだから」
と思ってしまわれるのも、それはそれで、変な身体変更の妨げになるのでして。

もしも自身の体について深い理解をしていただければ、
それを怖がるというのは誤解でしかないとわかるでしょう。
ですが、人間の特性なのか、印象って怖いものですね。
インパクトの強いマイナスイメージだけが記憶に残ることがあるんです。


ただ、すでに早々にそのような状態に至りそうな人には、
そのようなアドバイスを告げないのもよくありませんし、
概要をお話をさせていただくことはあります。
そうすると、全員ではありませんが、
早晩、やはりそのようなこころの浮き沈みを感じたと、
あとで報告をいただくことがあります。

そして、まさに今日来ていただいたお客様が、
いつしか、そのようなレベルにまでひた登ってこられて、
こころの方に、ど〜んという状態が起きておられたとは。

申し訳ないことをしたと思う反面、
なかなか、やるなぁと、感動しました。


心のなかの、今まではあまり深く触れようとしなかった緊張点を、
今ならばそれを解き緩めていける時期が来たんだとわかったから。

内側の手放すべきものを知っている自分。
そしてそれを手放そうとしない自分。

その二人の自分が、そこで話し合いをし始めたのでしょう。

ポイントは、手放そうとしない自分に、
「その考え方もいいね。
とても良いと思うよ。

でももう少し見方を広げて
この考え方はどうだろう?」

というように、

いったんは必ず100%の承認をして、
それから徐々に視野を広げて考えの多様性を持たせること。

そのような自己対話を内省的に繰り返していくのです。

それが、私の過去の経験上、
スピーディーにこころの柔軟性をあげて、
泥沼に陥る自分の心や感情を救い出せる。

コーチング的な見方ができるようになり、
救われた一面ですね。これは。 ^-^


これにより、こころの奥に隠れていたものを、
大難を中難に、中難を小難に、小難を無難に。

それが起きてくれるものだと感じています。
posted by スズキ at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 施術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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