『相手に欠点がないように思われ、
何もかもうまくゆくのだったら、
その人とつきあうことは当然であり、
利己的に言っても価値のあることだから、
別に愛などという必要はないかもしれない。
欠点のある人-誰しも欠点を持っているのだが-と、
自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、
愛があるのではないだろうか。』
この考え。
私の胸をえるぐかのように深く刺さります。
私も、自分が欠点がないように思われたい。
そうのようにはできてもいないものの
理想型の幻想を求め、
息の詰まるようなときを過ごすことがあります。
「優れた私」、「役立つ私」であるならば、
愛がなくとも価値を感じて付き合ってもらえる。
必要と感じてもらえるから、来ただけの人を。
どれだけ求めていこうとするものか。。。
すると『〜すべき』『〜じゃないとだめだ』と、
過去の私が自分を苦しめ続けた思考パターンに。
どっぷりと落とし込まれてしまうわけです。
ただし、どんなにあがいても欠点があるのが人間です。
『〜すべき』と歯を食いしばり才能が優れていたとしても、
それはトータルの人間性のうちのひとかけらにしか過ぎず、
相手からは見てほしくない欠点を目ざとくみつけられます。
考えてみれば、
自分に対して「欠点を持っていたとしても、いいよ」と言い続けて、
前向きな付き合いをしつづける関係を維持する姿勢が愛情でしょう。
「欠点を持っている自分なんて、許せない」としょぼくれるよりも、
おおらかな心の声が聞こえてくるようになるでしょう。
「できてるところも、たくさんあるよね」とか。
「生きる意義は、所詮は自分で描く物語。どうこの個性を活かしてストーリーを仕上げようか」とか。
または「利己的な気持ちを超えた付き合いこそ、本道があるよね」と。
河合隼雄先生の言葉通りを受け取ってみる。
そのような心の声を胸の内に響かせるようになったとき、
人の結びつきが深まり、
同じ時代を生きる人同士の築く社(やしろ)の骨組み強度が増すのでしょう。
『利他の精神』を栄えさせ交流しシェアして生まれる豊かさを生き抜ければ。
それは首や肩の凝らない、胸のすくような気持ちで日々を暮らせる心持ちに。
それがかつてから日本に土着していた大和(やまと)のこころなのでしょう。
アドラー心理学には、『幸福の3条件』がありまして。
・自分が好き
・人を信頼している
・人に貢献する
といいったことができていれば、
幸福だというんですね。
まずは、最大限自分を好きになれるよう、
自分とのつきあい方を利己的にならずに。
少しでもそう考えるよう心がけたいですね。
最近、しみじみ、そう感じるこの頃です。
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