2022年03月30日

オトナになってから、動き方や姿勢の癖を変えるのが難しいワケ

このブログをお読みいただきたい方:

■ 動き方の質を改善したいと、本気で思っている方



今週の日曜日に成田山新勝寺へお参りに行きました。
成田山新勝寺は日本三大不動で名高い真言宗のお寺です。
江戸歌舞伎の第一人者である初代市川團十郎。
歌舞伎の舞台に暫や鳴神に代表される荒事を取り入れ、人気を博した初代團十郎。
しかし、跡継ぎに恵まれず、成田山の当時の本堂である薬師堂で一心に子授けを祈願します。
すると見事、待望の長男を授かったのです。

というご縁で代々歌舞伎役者の市川團十郎は成田山新勝寺への信仰が深いのです。

幾度か新勝寺には足を運びましたが、本堂のあるおみくじやお札が授けられる裏手に休憩所があり、
初代から現代の市川海老蔵 (11代目)まで大パネルで紹介されておりました。

歌舞伎役者の多くは一子相伝のような技芸と思っていましたら、
歌舞伎への関心が高い素養はあるが十代目 市川團十郎は歌舞伎役者の血を引かず婿養子にて大成した役者もいたのですね。

そのような市川團十郎の流れがあったとは知らず、
少しの間、そのパネル前で想像を膨らませていました。

「よほどの身体能力や動きの呑み込みのよさなど天性のものを授かっていたのだろうか?」

人の身体操作は幼いころの動作のノウハウが白紙かまだ書き込みをする余地がだいぶある状態で学習することで、
動きのプログラムを自らの脳内に書き込みます。
いったん動きのプログラムという動き方の手続きを獲得すると、
その後は過去に独自に得た身体操作を繰り返していくのです。
そしてまったく新たな運動をするよう提示されても、
かつて獲得して基本の運動プログラムがいつづけます。
そこには変更の手をかけずに下地にして、
部分修正という形で、新たな運動コードを追加する。

それがオトナの手癖のついた運動法の獲得パターン。

それはたとえばエクセルのような表計算アプリが更新されバージョンアップするときに似てます。
現バージョンのエクセルのプログラムソースコードを一切捨てて、新たに書き直すには手間暇コストがかかる。
だから部分的な機能を追加したり、バグを取る更新をするようなバージョンアップが繰り返されていきます。

脳内もかつて試行錯誤して多大なコストや手間暇をかけて得た基本の運動部分の膨大なプログラム資源を捨てるのは不経済。
そう考えているので、つねづね、新たな運動の方法を学ぶときも、かつて得た運動プログラムを用いようとしてしまいます。

そうした幼少時に得られた動きのプログラム資源が最高傑作だと期待することは現実的ではありません。
たとえば左右に利き手利き足がるのは通常だと思っている方もいるでしょう。
ですが自動車の左右のタイヤの回転が右がいいが左がダメだなんてないはず。
でも人の歩きを詳細に検証すれば利き足側と対になる足では出し方が異なり、
それで股関節・膝関節の片側に負担を過剰に強いていたならば。。
大なり小なり、人はかつて得た運動プログラムを捨てられずに、
バグがはいったままの運動に新たな動き方の追加分を付け足す。

そしてそうした運動獲得法にも慣れてしまっているため、
「そうすることで何が悪い!侮辱するのか!?」というような感情さえわきたちます。

するとエクセルのプログラムソースはしっかりしてるかもしれませんが、
それほど多人数で練りに練って得た運動プログラムを持たない私どもは、
バグの入った運動に新たな運動を部分付け足しを繰り返していくのです。
そうして得てしまった「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」。
ですがそれって誰もがする普通のことに感じて疑問の欠片ももてません。





身体のかなめ(要)の腰は下半身と上半身の間に挟まれ、
押し引きするドアの蝶番(ちょうつがい)のように動きが激しく、
強度が求められる身体部位のひとつです。
そうした腰部には姿勢を支える動作や運動での負担がかかります。

だからこそそうした腰部を支えるための筋肉や支柱になる骨は屈強に作られており、
しなやかさのもとに長らく維持できるような負担軽減の仕組みが与えられています。
ですからすでに腰痛がひどくなるような状況であれば、
自然体であれば痛みの起きることなく支えられる組織の力を活かしきれず、
気づかないうちに上述した「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」ことが見て取れるのです。



それは、、、
あたかも「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」が、それでも構わずやっていこうという自分。
解離性同一性障害の片割れのような頑固さを持った脳が支配しているもう「ひとりの自分」がそこにいます。



話が戻りますが、、、
だから
歌舞伎役者の血を引かず婿養子でといった幼少の歌舞伎の運動基礎が基本運動として身についていないはずの十代目 市川團十郎。
市川團十郎という重責を背負うことになり舞台上に立ったことの驚きがありました。
オトナから「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」者が新たな運動を学んだ。
そうしたある意味では歌舞伎の独自の身体操作を体現するにはハンディキャップといえるような役者が、
いったいどのような舞台をつとめたのでしょう。

そのことに色眼鏡なしの関心を持ちました。


ただ勝手な想像をさせていただければ、
幼少時に得た複雑な運動プログラムのマイナス面を捨て去った者だから
告別式で追贈を得て贈十代目市川團十郎と呼ばれる栄誉がかなったのでしょうか。
目の肥えた観客も多く、舞台上で実を人前にさらして感動を得る真剣勝負は力がなければできません。

不退転の一歩も引かずの形相で悪を戒める憤怒の相のお不動様の新勝寺にご縁がある市川團十郎として歌舞伎の舞台上に立つ。

そんなことを思い、いい勉強をさせていただいたと感謝しながら成田山新勝寺を後にしました。




そういえば、コンテンポラリーダンスにて受賞回数の多いお客様がいて。
どうしてもオトナからの「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」ものの呪縛から抜け出せなかったことが、
振付師の恩師が患われて引退されるときの記念公演で踊るときの前の彼女の動きを見て、体型を、姿勢を見たとき。
驚くような状態を見せてくれました。
そこにはかつての自分の頭では現状が思わしくないと理解していても、
脳という別人格の古い運動方法を書かれたプログラムを手放さなかったものをバッサリ消した姿を見せてもらいました。

身体のパーツが理想位置に移行した体型・姿勢、左肩が無意識に挙げて不可解な緊張も落ちている。
憑き物が去った後のようでした。

そしてもともと身体操作の要領はよく研究していた方で、
古いバグった運動法がかかれたプログラムがデリートされた後は、
それまで得た理想の身体操作法というプログラムが書き終えていました。
天性の運動脳と勉強熱心で細部にわたって描かれた理想の姿のままを勝ち得た。
そういった風格を感じ取りました。

私はそのお客様から、学ぶことが多かったですね。




オトナからの「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」とき。
ちょっとだけためしに運動の方法を新しいものをつけたそうという、
弱い動機では人は変われないようにできていた。
それは「ちょっとだけためしに運動の方法を新しいものをつけたそう」という声を、
脳という保守的で変化を好まない態度をとりやすい器官は、しっかり聞いています。
だから脳は次のように思うのです。
「こいつはちょっとのあいだ、改善気分を味わわせれば元通りになる」とか、
「こいつは本気で変わろうとはしてないんだから、変える必要なしだ」など。
そうすると、動きの芯が変わらずに、表面ばかりを真似て変わった気になる。
またはついつい運動の方法を変えるなんて面倒くさいからしたくないという(または思う、感じる)のです。



個人的には、大人から動きの質を変えるためには本人の変えたいという強固な意志、
また強烈な好奇心がともなうことが必要だと感じています。
その思いは、実は昨今のお客様の前向きにひたむきにがんばって変化する姿から感じています。


私の性格上、お客様のそれぞれの思いや背景、そして生活環境を感じ取るから、
突き詰めて動き方の変化に夢を希望を期待を持とうと押し付けるのは難しいのです。

ただとにかく耳タコになるくらい、
「あっ、それ、前も言ってたよ!」と言われるように、
時として重要なキーワードを繰り返し述べるようにし、
いまのそのお客様にあった段の動きの原初的なやり方を勧めるようにしています。
ひたすらにゴリゴリと繰り返して耳や体に体験をしてもらうことから学べること。
そこから化ける気づきの入り口を発見してくれればという願いで繰り返します。
※別段、前回私がこうしてみましょうといったことについて、
 できていても、あっ、できてるな〜と思うだけでして、
 できていなくても、あっ、できてないなーと思うだけ。
 そこでの避難がましいことは言うつもりはありません。
 ただできてたら、にこりとほめるような気づかいや心配りは大事だぞと、反省してます。
   

そしてお客様自身が自分の脳の保守的な一度得た動きの用法を手放さない特性に気づいて、
そこを整理しているものといらないものを分けだしてくれるようになったときに。

少なからず各お客様の身体の状態が化け始めているように私には映ります。


脳は、オトナからの「複雑な運動プログラムのマイナス面を背負う」けど、
今まで獲得したやり方を変えようとか変えたいといったときの思いが浅い希望や期待は跳ねのける性状があります。
そうした本来の自分の身体能力のフル活用ができている理想への歩みをとん挫させる不利益をもたらす器官が脳です。

脳は、じゃじゃ馬のように思うように動いてくれない!
これを一朝一夕で収めたいという者には、
じゃじゃ馬のような脳のままで変わりません。

そうした側面を熟知して、よい乗馬の騎手となって乗りこなしたとき。
手あかに汚れた運動の方法のにおいを整理し治めていくことになって。
脳の潜在的に所持していた引き出しから感性や想像力にもとづいて観察から本質に感づきだし、
得難い化け方をして他者に譲ることもかなわない一生の宝を授かることになれるはずです。


つまり乗りこなせなければ間違った道を走りだして止まらない脳が、
ひとたび乗りこなせれば強靭な自然の身体に沿った本来の機能を取り戻すのも脳の力。


贈十代目 市川團十郎。
九代目市川團十郎の婿養子の堀越福三郎 。
実父は日本橋履物商で後に東京市議となった稲延利兵衛。
この十代目 市川團十郎、どんな歌舞伎の舞台をつとめていたのだろう。

私の生前での活躍ですから観劇することもできませんが、重ね重ね、見てみたかったですね。
posted by スズキ at 12:13| Comment(0) | 体の使い方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする